2014年09月20日
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特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その④ライン川より美しい阿賀野川の船旅から新潟へ〔中編〕
「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その④ライン川より美しい阿賀野川の船旅から新潟へ〔中編〕
前編では、阿賀野川の「津川急流下り」を途中まで紹介しました。バードはこの「津川急流下り」をまるで「廃墟なきライン川」と形容し、本家よりも「美しさの点では…(中略)…勝っていた」と最大限に賛辞しています。バードが日本の景観をここまで絶賛するのは、他には山形県置賜地方を「東洋のアルカディア」と称賛した以外になく、日本に対して厳しい所見も多い中でこの点は嬉しいですよね。
バードが驚嘆した「廃墟なきライン川」を、昔の写真とともに振り返る
さて、今回も前編と同様に、「津川急流下り」の景観を昔の写真と共に振り返ることで、バードが目撃したであろう景観を少しでも追体験したいと思います。上記地図はバードが辿った阿賀野川の船旅のうち、津川から安田橋附近までを抜き出したもので、現在や過去の風景写真を掲載した箇所をナンバリングして、地図に落とし込んでいます。前回は⑤まで進みましたので、今回は残りの⑥~⑫を追体験します。
⑥五十島集落の船着場と対岸の将軍杉 (※地図を確認する)
「五十島の船着場」(大正初期/「写真集ふるさとの百年 五泉・中蒲原・東蒲原」〔新潟日報事業社〕P.139から引用)
津川を発着の拠点とする「津川船道」では、この津川急流下り沿岸の各集落が舟を多く所有するなど津川以上に活躍しており、これらの集落はまとめて「下条(げじょう)組」と呼ばれていました。五十島集落は下条組の中でも影響力の強い集落の一つで、写真のような立派な船着場がありました。バードは定期船の乗客が「川沿いの集落で次々と下り」たと書いているため、この五十島集落の船着場にも船は立ち寄ったのかもしれません。
「三川温泉風景・天然紀念木・将軍杉」(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
阿賀野川を挟んで五十島集落の対岸には将軍杉があり、現在でも観光名所として有名ですが、さすがにバードが船から降りて立ち寄ることはなかったでしょう。環境省の調査によると、樹齢が推定で1400年、幹周19.31m・樹高38mで、現在では日本一の巨木として認定されています。「将軍」という名前の由来は、前回にも登場した平維茂にちなんで呼ばれるようになったとのことです。
⑦石間(現・道の駅「阿賀の里」附近)&⑧佐取(現・咲花温泉附近) (※地図を確認する)
石間附近の阿賀野川の昔の写真はまだ収集できていないので、上流から下流を撮影した現在の写真を掲載しておきます。
阿賀野川右岸(写真右)に少し写っている建物が、道の駅「阿賀の里」の一部です。
現在はここが「阿賀野川ライン舟下り」と称する急流下りや遊覧船の発着場となっています。
「阿賀野川ライン」という名称は、阿賀野川を「廃墟なきライン川」のようだと絶賛したバードの言葉に由来しています。
ここから川を少し下ると、現在の五泉市にある咲花温泉が阿賀野川の左岸(写真左)に見えてきます。現在は水が満々と湛えられてますが、これは昭和42年から供用が開始された「阿賀野川頭首工」と呼ばれる農業用水等の取水ダムが、咲花温泉の下流に完成したことで出現したものです。したがって、バードが通過した頃はもちろんダムはなかったため、このようなダム湖も存在せず現在の光景とは多少様相を異にしていたのでしょう。
「岩越線奇勝・佐取村・阿賀野川の勝景」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
これは佐取村附近を下流から上流に向けて撮影した写真で、咲花温泉の少し上流に当たります。写真右(阿賀野川左岸)に、大正期に開通した岩越線(現・JR磐越西線)の線路とトンネルが写り込んでいますね。ちなみに、咲花温泉は昭和30年前後の開湯と意外に歴史は最近なので、バードが通過した当時はこの岩越線も咲花温泉もありませんでした。
⑨小松附近(現・阿賀野市)&⑩馬下附近(現・咲花温泉附近) (※地図を確認する)
「小松」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
「岩越鉄道沿岸風景・小松の逆帆」(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
咲花温泉をほんの少し下流に進むと、対岸(阿賀野川右岸)は阿賀野市の小松集落になります。上記の写真はどちらも昔の小松の光景を写真に収めたものであり、下流から上流に向けて撮影されています。かつては小松にも地元の産品などを出荷するための川戸(船着き場)があったと聞きますが、こうした写真からも帆掛け舟の往来が頻繁だったと言われる過去の姿がうかがえます。
「岩越鉄道沿岸風景・馬下の渡船場」(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
「岩越線名勝・馬下駅付近・阿賀の川沿岸の景」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
さらに阿賀野川を下ると、現在では小松集落の終わりあたりに馬下(まおろし)橋が現れます。もちろんバードが通過した当時は橋などなく、渡し舟が人々にとっての橋代わりでした。上記の写真はどちらも下流から上流に向けて撮影されたもので、阿賀野川左岸(五泉市)の馬下側にあった渡船場の写真です。岩越線の馬下駅が近くにあり、乗り降りする人々が両岸を行き来するためよく利用されたようで、この近辺は絵葉書写真にもしばしば登場します。
⑪六野瀬赤坂(現・阿賀野市)&⑫初代・安田橋付近 (※地図を確認する)
「保田赤坂より見たる阿賀野川」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
馬下付近よりさらに下流に下ると、阿賀野川右岸は草水や赤坂という地域になります。ここは豊富に採れる粘土を原料に明治初期から製陶業が発展した地域で、陶器製品をよく阿賀野川から船に積んで出荷したと言います。写真は下流から上流に向けて、おそらく立川ブラインド工業㈱新潟工場さんが現在ある近辺から阿賀野川を撮影したものと思われます。
「阿賀野川より遠山を望む」(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
今回最後に登場する写真は、初代・安田橋付近の阿賀野川の様子で、下流から上流に向けて撮影されたものです。現在の橋はもう少し下流にありますが、初代は渡場(阿賀野市)と笹堀(五泉市)の間に架橋されていました。バードが通過した当時は、初代の橋もまだ架かっていない頃です。
この辺りが阿賀野川が山から平野へと抜け出る地点で、バードが魅了された「津川急流下り」は終わります。長くなりましたので、これ以降の箇所は〔後編〕でお伝えします!
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