2014年09月09日
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特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その③津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ〔後編〕
「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その③津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ〔後編〕
さて、先週はバタバタしておりまして更新がすっかり遅くなってしまいましたが、前編では、バードが津川町中を船旅の食料を求めて散策し、宿に帰ると夕食が出て獲れたてのサクラマスの切り身に舌鼓を打ったところで終わりました。後編ではいよいよ、バードが貨客船に乗り込み、津川の河港から阿賀野川へと出航するまでをお伝えします。
ちなみに、バードが津川を訪れた1878(明治11)年前後は、津川を含む東蒲原郡は旧会津藩領だった名残から依然として福島県に属していました(※新潟県への編入は明治19年)。バードが訪れる約3年前の1875(明治8)年8月、津川の中町通りにある新丸屋旅館では、津川の豪商で山林王の平田治八郎が政商・古河市兵衛に草倉銅山の借区権を売却する契約を結んでいました。その後、古河市兵衛は草倉銅山の収益をもとに足尾銅山の開発に成功する一方、平田治八郎は売却資金をもとに明治11年に第三十一国立銀行を設立します。当時のバードも津川の町中を散策する途中で、現在は取り壊されてしまった新丸屋旅館や平田邸(赤レンガの壁面だけ現存)の前を通り過ぎたことでしょう。
写真左から:古河市兵衛/草倉銅山定宿・新丸屋旅館(所蔵:田崎英司氏)/平田治八郎(「東蒲原郡史 通史編2 近現代」P.81より引用)/平田家(大正中期・「写真集ふるさとの百年 五泉・中蒲原・東蒲原」〔新潟日報事業社〕P.163より引用)
昔日の津川河港を振り返る
阿賀町ホームページによると、かつて日本三大河港と称された津川の船着き場は「大船戸」(おおふなと)と呼ばれて150隻もの船が発着し、船荷を積み下ろす丁持衆と呼ばれる労働者が100人も働くなど賑わっていました。会津から新潟への商品輸送には、会津藩が上方で年貢米を高値で換金するための廻米(年貢米の輸送)が多く、その他に内陸部の山林から供給される薪炭・木材などが輸送されていました。一方、新潟から会津へは、海側や平野部の特産品である塩・海産物・綿布などが多く輸送されていたそうです。ここでは、津川などを拠点とする船の所有者たちが「津川船道」(ふなどう)と呼ばれる舟運組織を形成し、江戸期を中心に大変な隆盛を誇りました。
写真左 :明治期の大船戸とおぼしき場所(所蔵:田辺修一郎氏)/写真右:上流側から眺めた現在の風景
上記に掲載した写真(左)は、明治期の大船戸とおぼしき場所を撮影した絵葉書の写真です。背景に麒麟山が写り込んでいるため、麒麟橋側から撮影した写真になります。一方、右の写真は、現在の大船渡があったとおぼしき場所を撮影したものですが、昔の写真とは撮影位置が逆で上流側から撮影していますので、背景に麒麟橋が写り込んでいます。ご覧のとおり、現在は舟運が栄えた頃の面影はまったくなく、阿賀野川や常浪川が鏡面のような静けさを保っています。
「津川湊町地図」(※「東蒲原郡史資料編5近世四」P.558を参照しながら、現在の住宅地図に史跡情報を図示したもの)
明治期に入ると津川船道は解体されますが、津川の舟運自体は大正期に鉄道が敷設されるまで隆盛します。ちなみに、バードが津川に滞在した7年後の1885(明治18)年には、大船戸の90m下流に水量の増減に対応できる新しい港が建設され、「新河戸」と名付けられました。それ以降は、塩や海産物の陸揚げや薪炭や木材等の積み出しなどはこの新河戸をメインに行われ、江戸期ほどではないにせよ大いに栄えたと言われています。
写真左 :明治期の新河戸とおぼしき場所(所蔵:田辺修一郎氏)/写真右:似たような位置から撮影した現在の風景
しかし、大正期に鉄道(=岩越線、現在の磐越西線)が敷設されると、舟運自体の需要が減少し津川の新河戸も衰退します。その後は筏(いかだ)流しの拠点港として何とか存続するものの、昭和30年代後半に揚川ダムが下流に建設され筏流しが不可能になった時点で、港としての機能を失ってしまいました。なお、津川の河港跡の近くには、町民だけでなく水運関係者の信仰を集めた住吉神社が、今なお町全体を見守るように鎮座しています。
写真左 :津川の河港をぎっしり埋めつくした筏(所蔵:田辺修一郎氏)/写真右:現在の津川・住吉神社
艜(ひらた)船に乗って出航したバード
麒麟山を背景に阿賀野川をくだる帆掛け舟(所蔵:田辺修一郎氏)
快適な舟旅
新潟行きの舟は八時に出ることになっていたが、伊藤は五時に、みんな出ていっています、舟が満員です、と言いながら私を叩き起こした。それで大あわてで出発した。宿の主人は私の大きな荷物の一つを背中に担いで川[常浪川の船着場]まで走ってくれ、そこで「客の道中の安全を祈って別れを告げた」。二つが合流して一つになった川[阿賀野川]は、もっとゆっくりできればうれしいのにと思えるほどに美しかった。朝には[朝焼けのため]不思議なほど色彩豊かで柔らかかった陽の光は、昼にはギラギラと照りつけることのない輝くような美しい光へと変化した。暑さも酷くはなかった。
(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.240引用。なお[ ]内は訳者等による補足説明)
バード一行は津川に2連泊した後、いよいよ7月3日の朝に津川の大船戸(とおぼしき場所)から阿賀野川へと出航しました。バードが乗る船は8時に出航予定だったようですが、現代の私たちからすると(バードにとっても)信じられないことに満員になると出航してしまうらしく、従者の伊藤に朝5時に叩き起こされて少々不満げです。しかし大変喜ばしいことに、その後の阿賀野川の船旅の記録に関しては、これまで陸路を旅してきた際の息詰まりそうな文面とは異なり、阿賀野川を大いに気に入ってくれたためか大変落ち着いた軽快な筆致が続きます。なお、バードは乗り込んだ貨客船もしっかりと観察し、次のように記録に残しています。
この「定期船」は造りのしっかりした舟で、長さが45フィート[13.5m]、幅が6フィート[1.8m]あり、一人の男が船尾で艫櫂(ともがい)を使って漕ぐ一方、もう一人の男が幅広の水かきをもつ擢を漕いで進んだ。その擢は舳先(へさき)に取り付けた藤綱の留め具の中で動く。またこの擢には長さ18インチ[約45㎝]ほどの小槌の柄が付いていて水をはじくようになり、一回かく度に左右に動く仕掛けになっている。この二人の船頭は立ちっぱなしで、頭には雨笠をかぶっていた。舟の前方部と真ん中には米俵と木枠に詰めた陶器が置かれ、後部は藁屋根で覆われ客席になっていた。
(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.240引用。なお[ ]内は訳者等による補足説明)
明治以降に阿賀野川を往来した船には、大揚川(オオアガワ)舟や長舟など様々な種類があるのですが、江戸期まで津川船道の主流だった船は「艜(ひらた)船」と呼ばれる帆掛け舟で、明治初期にもまだ現役で活躍していました。この船が登場するのは近世後期で、大きさは大・中・小の3種類があり、それぞれ塩を250俵・187俵・125俵を積載できたと言われています(※オオヒラタは7~8人乗りで15トンも積載できたとの記述もある)。
写真左から:小ヒラタ船の模型/大ヒラタ船の舵/ヒラタ船の櫂(いずれも「東蒲原郡史資料編5近世四」P.553から引用)
別名オーデンとも呼ばれたオオヒラタ船の寸法は長さ約23m・幅約2mの大きさだとされており、バードが乗った貨客船は長さが「13.5m」とのことなので、おそらく小ヒラタ船だったのではないかと推察されます。船頭が2人ついて船を漕ぎ、米俵など若干の荷物を積載していたようですが、大勢の乗客を乗せて阿賀野川を悠々とくだっていきました。乗客は船体後部にある藁屋根で覆われた客席にいるようですが、晴れていたこともありバードは雄大な景色をよく観察しようと屋根に覆われていない客席の外に出ていたような気がします。
次回は、阿賀野川をくだり新潟へと到着するまでをお伝えしたいと思います。
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