2014年08月27日
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特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その②県境から会津街道を通り津川まで〔前編〕
「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その②県境から会津街道を通り津川まで〔前編〕
前回はイザベラバードの生涯〔その①前編〕を簡単に紹介し、旅行記「日本奥地紀行」や旅立ち前の要人との交流〔その①後編〕について説明しました。今回は、県境から津川に至るまでの会津街道の旅程に焦点を当てて、イザベラ・バードの旅行記を紐解きます。
(「イザベラ・バード紀行 『日本奥地紀行』の謎を読む」(著者:伊藤孝博/無明舎出版)P.8より引用・改変)
東京を出発(6月10日発)したバードと従者の伊藤は、途中、栃木県の日光に1週間以上滞在(6月13日着→24日発)しつつ、やがて福島県に入ります。そこからが難所で7日間もかけて悪路を旅しながら、7月1日にやっと県境を越えて新潟県の津川へと至ります。
バードにとって「悪名高き道」だった会津街道
バードが福島県の現・西会津町から新潟県の現・阿賀町へと抜け出たコースは、江戸期の重要な交易路であり、新発田藩や村上藩が参勤交代の際に利用した会津街道(福島県側からみると「越後街道」)に当たります。この街道は新発田から赤谷を抜けて阿賀町に入り、津川を経由して福島の会津若松へと抜けていました。津川から福島にかけては現在の国道49号の近くを通っていましたが、もちろん現代のように整備された道路ではありませんでした。
「会津街道~いにしえから続く道~」(発行:阿賀町・新潟県新潟地域振興局)
※会津街道の歴史や見所が阿賀町を中心にコンパクトに整理されたブックレットです。
会津街道は今でこそ歴史を愛する多くの方々が関心を寄せる旧跡ですが、バードにとってはかなり苦労した道程となったらしく、特に県境近くの福島側の車峠を越えたあたりから「悪名高い」と形容するほど、目の前に続く道への愚痴がいっそう激しさを増します(汗)
(悪名高い道)
昨日[7月1日]の旅はこれまでで最も厳しいものの一つだった。10時間もの大変な旅だったのに、わずか15マイル[24キロ]進んだだけだった。車峠から西に向かう道はたいへん悪名高い道なので、一部の宿駅は1マイル[1.6キロ]そこそこの間隔で設けられている。しかし、多くの町がある会津平野[盆地]とその奥の広大な地域の農・工産物の新潟への移出は、少なくとも津川川[阿賀野川]に出るまではこの道によるしかない。この道は近代的なものの考え方をまったく無視し、山を、推測で言うのも怖いぐらいの急勾配で、真っすぐに上ったり下ったりしている。さらにぬかるみの連続になってしまっているうえに、大きな石が放り込まれて角だけが上に出たり、ぬかるみの中に完全に没したりしている。馬に乗って通った道でこんなにひどい道はこれまでなかった。よくも道などと言えるものである!
(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.235引用。なお[ ]内は訳者等による補足説明)
惨憺たる言われようですが、バートが通過した数年後の明治15年には三島通庸(みちつね)が福島県令として着任して、(後に福島事件を引き起こす一因となった)有名な「会津三方道路」と呼ばれる大規模な道路改良工事を実施し、その過程で本ルートも整備されました。
当時の旅行案内書から辿るバードの行程
こうしたイザベラ・バードが選択した厳しい旅のコースを眺めると、素人目には「陸路ではなく、福島県内から舟に乗り阿賀野川を悠々とくだって津川や新潟へ向かえば良いのに…」と思いがちです。しかしながら、当時の阿賀野川は津川より上流が岩の突き出た難所や浅瀬が多く、舟による通行が事実上困難だったそうです(※現在でも多くのダム式発電所に行く手を遮られ通行不能になっていますが…)。そのため、当時は人も物資もいったん会津街道を通って陸路で津川まで行き、津川の河港から船に乗り換えて阿賀野川をくだって新潟へ抜け出る行程が一般的でした。
さて、バードは旅行記の中で、このあたりの地名として、宝坂(ホウサカ、時に宝沢・ホウザワと誤記)や鳥井峠(原文ではトリゲと誤記)、栄山(サカイヤマ)などの名前を挙げています。そこで、様々な地図や写真などを確認しながら、彼らの行程をたどってみることにしましょう。なお、上記地図は阿賀町の会津街道の全体像を示すものですが、バードが辿った津川までの行程を判別しやすくするため、そこから先の新発田に至るルートは半透明で図示しています。
まず、①「車峠」を越えた福島側の最後の集落が、②「宝坂」(宝川村と白坂村が合併)になります。そこから新潟県に入る県境の峠が、飯豊山崇拝の「一の鳥居」があったと言われる③「鳥井峠」で、そこを越えると新潟県の最初の集落④「八ツ田」に到着します。江戸末期の1858(安政5)年に発刊された、「道中絵図」と呼ばれる当時の旅行案内書で確認すると、次の通りとなります。
「奥羽会津より越後新発田道中絵図」(西会津町町史編さん室所蔵)
※「東蒲原郡史資料編5近世四」P.525写真図から引用
八ツ田の集落をすぎると次に⑤「福取」という集落が現れますが、この集落に入る直前の会津街道脇には当時の「一里塚」がまだ立派に現存しています。恐らくバードもこの一里塚のそばを通過したものと思われますが、悪路にうんざりしていた彼女が気づいたかは定かではありません。
福取の集落を過ぎて峠を越えると、街道の宿駅として知られる⑥「八木山」集落に到達します。バードはこのあたりを「栄山」(サカイヤマ)と表現していますが、ここは明治8年に八木山村と他2村が合併して栄山村となったことから、バードの誤記ではなさそうです。下図の「道中絵図」で確認すると「焼山」となっていますが、これも明治8年に「八木山」へと改名されたようです。
「奥羽会津より越後新発田道中絵図」(西会津町町史編さん室所蔵)
※「東蒲原郡史資料編5近世四」P.526写真図から引用
長くなりましたので、「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その②県境から会津街道を通り津川まで〔後編〕へと続きます!
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