2014年08月20日
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特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その①イザベラ・バードの生涯と日本奥地紀行について〔後編〕
「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その① イザベラ・バードの生涯と日本奥地紀行について〔後編〕
前編の記事ではイザベラ・バードの生涯を簡単にご紹介しました。
調べてみて分かったのですが、名前は有名で知っていても案外その人の人生までは知らないものだなと再認識しました。
そこで、彼女が書き記した「日本奥地紀行」についても、もう少しだけ詳しく知った上で、来週以降に阿賀流域行路に入るとしましょう。
◆旅行記「Unbeaten Tracks in Japan」(日本奥地紀行)について
イザベラ・バードは1878年(明治11年)の5月20日に横浜港に到着します。その前年には、明治維新後の士族反乱のうち最後にして最大の内戦となった西南戦争が終結しており、バードが訪れた頃の日本はまさにようやく近代国家として本格的に歩み出そうとした時期に当たります。到着後のバードは横浜と東京を往復しながら、様々な同国のイギリス人と出会い、旅の準備を急ピッチで進めていきます。
(「イザベラ・バード紀行 『日本奥地紀行』の謎を読む」(著者:伊藤孝博/無明舎出版)P.8より引用・改変)
旅の準備が整ったバードは、当時の東北行きの主要ルートである太平洋側ではなく、難所も多く含む日本海側のルートをわざわざ選択して、6月10日に東京の英国公使館を出発します。そして、新潟を経由して北海道まで辿り着いた後、9月14日に函館港から横浜に戻る船に乗り込み、いったん旅を終了します。私たちがよく知っている「日本奥地紀行」は、ここで終了となっているようですね。
左「日本奥地紀行」(高梨健吉訳・平凡社)
/中「イザベラ・バードの日本紀行・上下」(時岡敬子訳・講談社)
/右「完訳・日本奥地紀行1~4」(金坂清則訳注・平凡社)
というのも、原著の「Unbeaten Tracks in Japan」には完全版と簡略版の2種類があり、これまで多くの日本人が親しんできた高梨健吉さん訳「日本奥地紀行」は後者を訳したものなのです。実は北海道から戻ったバードは、その後関西方面へと旅を続け12月19日に日本を離れています。しかし、簡略本では様々な場面の記述が大幅にカットされ、しかも北海道までの道程しか収録されていません。
なお最近では、完全版の訳も出版されていますので、バードが当初に伝えたかった旅行記の全体像を日本語訳でじっくり味わうことができますよ(※時岡さん訳は大変読み易く、金坂さん訳は詳細な注釈が素晴らしいです)。
◆3人の外国人と通訳兼従者・伊藤鶴吉との出会い
バードは旅の準備を行った横浜〜東京に滞在した間に、様々な在留外国人に出会っています。
その中でも特に、バードの旅行に関して重要な役割を果たしたと思われる3人の外国人を紹介します。
ハリー・パークス駐日公使
当時の日本では、外国人が居住・商売できる場所が、横浜・長崎・東京・神戸・大阪・函館・新潟の開港場に制限され、「パスポート」がないと開港場から半径40キロを超えて移動すらできず、さらに期間もルートも限定されていました。しかし、パークス駐日公使がバードのために用意したパスポートは、こうした制限が一切なく日本国内を自由に動き回れる特別な免状でした。
ファイソン夫妻
バードが東京の外国人居留地にある英国教会伝道協会に立ち寄った際に出会った夫妻で、新潟からやって来ました。夫のフィリップ・ファイソン氏はケンブリッジ大学を卒業後1874年に来日し、東京で日本語を学び新潟で7年間伝道に従事しました。バードが新潟を経由するコースを採用した理由は、ファイソン夫妻の新潟における伝道の様子を視察したかったからではないかと思われます。
ジェームス・カーティス・ヘボン氏
米国長老派教会系の宣教医であり、有名なヘボン式ローマ字の創始者でもあります。幕末の1859年に来日して神奈川に住み、横浜で施療所を新築し医療活動に従事しました。バードは数日間滞在したヘボン氏宅において旅行に帯同する通訳兼従者の面接を行い、多くの応募者の中から、最後に登場した(一見怪しげだった)若者の素質を見抜いて採用しました。
ヘボン氏の邸宅で雇った若者こそ、バードの旅の成功を影でサポートした「イト(Ito)」こと伊藤鶴吉氏です。
バードの通訳兼従者の「イト(Ito)」は長らく謎の人物とされてきましたが、バード研究者の金坂清則氏の調査で神奈川県生まれの伊藤鶴吉氏であることが判明します。日本の通訳業界では「通訳の名人」「通弁の元勲」なとど評され横浜通訳協志会の会長も務めるなど、それなりの人物として活躍された方であったようです。
伊藤鶴吉氏(1857年-1913年)
バートと出会った時は若干20歳でしたが、それまでの経歴も若いながら大変経験豊かで、かつて米国公使館で働いていたり、イギリス人の植物学者の通訳兼従者として、東北から北海道をすでに回っていたりと、目を瞠るものがありました。そして何より、英語で不自由なくバードと会話が交わせたことが、最終的な決め手となったようです(※面接したほぼすべての者が会話もできなかったらしい)。
バードは外国人である自分が行く先々で注目を浴びるため、屈強だが小柄でのっぺりした面持ちの伊藤氏の外見が平均的な日本人らしく気を引かない点も気に入りました。また、外見の第一印象とは裏腹に、時折のぞかせる頭の回転が速く抜け目がなさそうな表情などもバードは見取っており、実際に雇った次の日から伊藤氏は仕事を完ぺきにこなすなど、バードの人の素質を見抜く慧眼は証明されました。
さて、次回からようやく、イザベラ・バードの阿賀流域行路の様子をお伝えする予定です!お楽しみに★
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※太字の記事が現在閲覧中の記事です。
著書からだけでは判らなかった事どもが紹介されていてこれほど嬉しい記事はありません。
じっくり拝読させていただきます。