特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その④ライン川より美しい阿賀野川の船旅から新潟へ〔前編〕

2014.8.13スライダー:特集1イザベラバードの阿賀流域行路を辿る
 

「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その④ライン川より美しい阿賀野川の船旅から新潟へ〔前編〕

 
前回は前編でイザベラ・バードと共に津川の町中を散策した後、後編でいよいよ津川の河港からヒラタ船で阿賀野川へと旅立ちました。
そして、イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る特集も、今週でいよいよ大詰めを迎えます。
 
 

イザベラ・バードが辿った津川・新潟間の航路は、小阿賀野川を経由するルート

 
バードが乗り込んだ小ヒラタ船は津川と新潟間を往復する定期船ですが、バードが記録したところによると、定員は20~30名で、下りは流れに乗って8時間ほどで新潟に到着するものの、上りは所々船を曳きながら流れに逆らって川を遡上する必要があるため、どうしても5~7日かかったようです。
 

出発した時には25人の日本人がいたが川沿いの集落で次々と下り、新潟に着いた時には3人だけになっていた。私は、積み荷の先端に持参の椅子を置いて腰を下ろし、この川の旅が、日に15〜18マイル[24〜29キロ]しか進めない、ぬかるみを這うような旅とは雲泥の差のある快適なものであることを実感していた。この旅は「津川の急流下り」と言われている。約22イル[19キロ]にわたって両岸に高い絶壁が続き、水面に姿を現したり水中に没したりする岩が散らばり幾度か鋭く曲流し浅瀬をなす[危険な]部分も多い川を、舟は木の葉のように下っていくからである。水難はよく起こり死に至ることもあり、それを防ぐには船頭の長い経験や熟練、冷静さが必要だと言われている。いくつもの急流部がありはするものの、規模は小さく手に負えないものでもない。現在のような水位でなら舟は45マイル[72キロ]を8時間で下る。その料金はわずか1シリング3ペンスに相当する30銭にすぎない。ただ、[津川まで]遡る際には5日ないし7日もかかり、棹を使ったり岸から舟をひいたりという苛酷な労働を伴う。

(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.241引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 
「東蒲原郡史 通史編2 近現代」P.220によると、津川~新潟間の定期船は下りの場合、朝6時に出発すると夕方5時に到着できるそうですが、途中の乗客の乗り降りや荷物の搬入・搬出により時間がかかるため、通常は途中の船着き場(酒屋近辺)で1泊したそうです。上りは順風なら2日で津川に到着できるものの、曳き船の場合はバードの指摘どおり5~7日は要したようです。
 
2-1本尊岩から経岩へ(田辺)
「小花地・本尊岩附近」(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
 
バードが旅した津川・新潟間の一般的な航行ルートを様々な史料などから確認すると、定期船は途中まで阿賀野川を下りますが、通常は(現・新潟市秋葉区の)満願寺から小阿賀野川へ入り信濃川へと抜け出て新潟入りしていました。現在の私たちからすると、小阿賀野川に入らずそのまま阿賀野川を下り続け、河口付近から通船川を通り信濃川へと抜け出るルートも思い浮かびますが、当時は小阿賀野川を経由するルートが一般的だったようです。
 
なお、運賃はバードによると30銭とのことですが、前出の東蒲原郡史P.221によれば下表のような運賃となっており、バードの記録を裏付けしています。
 
●津川発(新潟行き)定期船の運賃表
定期船運賃表
 
 

バードが驚嘆した「廃墟なきライン川」を、昔の写真とともに振り返る

 
これまでの陸上移動の旅が苦難と疲労の連続だったためか、バードは積み荷の先端に陣取って眼前を流れる景色を眺め、阿賀野川の船旅を大変リラックスした状態でおおいに楽しみました。特に「津川急流下り」の箇所については、目の前に次々と現れる光景を最大級の賛辞で下記のように誉めたたえます。
 

赤銅色の船頭から藁葺きの屋根、帆柱にぶら下げられた乗客全員の笠に至るまで、舟はまさに「土着」のものだった。日がな一日、瞬時瞬時を楽しんだ。川を静かに下っていくのは賛沢な喜びだったし、空気はおいしかった。また、津川川[「阿賀野川」の誤記]が美しいとはまったく聞いていなかったので、うれしい驚きが湧き起こってきた。そのうえ、1マイル[1.6キロ]進むたびに待ち望んでいた母国からの手紙へと近づいていくのである。津川を出てすぐに、下ってゆく川の流れは幻想的な山々に行く手をさえぎられる感じになった。舟が通れるだけの幅で岩の門が開いたかと思うと、次には再び山にさえぎられるようになったのである。繁茂する木々の間から何も生えていない赤らんだ岩が、その尖塔のような姿を突如現した。まるで裸地なき[緑豊かな]キレーン[※スコットランド離島にある山]、廃嘘なきライン川であり、美しさの点ではいずれにも勝っていた。馬の背ほどの幅もないような尖んがった小さな稜線が無数にある山々があるかと思えば、灰色の巨岩がせり出した山々があったし、いくつもの細流が深い裂け目をなして流れ込み、高処には仏塔のある寺院が見えた。また、花の咲く木々の向こうには、勾配のきつい茅葺き屋根の民家が明るい陽ざしを浴びて見え隠れし、近くの山々の隙間からは雪をかぶる高い[遠くの]山々がちらっと見えた。

(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.241~242引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 
ここでは、バードが往来した明治11年の光景とはいかないまでも、明治期から大正期にかけて撮影された同じ箇所の写真と併せて、阿賀野川の昔の光景を振り返ってみましょう。下記地図はバードが辿った阿賀野川の船旅のうち、津川から安田橋附近までを抜き出したもので、現在や過去の風景写真を掲載した箇所をナンバリングして、地図に落とし込んでいます。
 

バード船旅(津川~安田)
 
 

①小花地の絶景・本尊岩 (※地図を確認する)

 
020
「津川名勝 小花地の絶景」(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
 
バードが前掲の引用箇所で「繁茂する木々の間から何も生えていない赤らんだ岩が、その尖塔のような姿を突如現した」と表現した部分は、小花地にある阿賀野川右岸の本尊岩のことではないかと言われています。上記写真は本尊岩を撮影した白黒写真に着色した絵葉書ですが、確かに「何も生えていない赤らんだ岩」として表現されていますね。本尊岩は昔から阿賀野川の絶景として大変有名で、絵葉書写真が何種類も作成され現存しています。
 
1-2小花地の本尊岩(柏崎)
「北越名勝・小花地の帰帆」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
1-1小花地の本尊岩(柏崎)
「北越名勝・津川街道の絶景」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
1-3小花地の本尊岩(柏崎)
「岩越線奇勝・小花地の本尊岩」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
これらの絵葉書写真はいずれも上流から下流を撮影したものですが、下記のように下流から上流を撮影した写真も現存しています。
 
【本尊岩】北越名勝・津川街道の景
「北越名勝・津川街道の景」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
この写真では、本尊岩の真下に人力車なども通行できる洞穴が確認でき、「本尊岩隧道」(※長さ23間≒約42m)と呼ばれていました。これはバードが訪れた頃はまだなく、「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その②〔前編〕でも少し触れた、「会津三方道路」と呼ばれた大規模な道路改良工事に合わせて、明治16年に掘られた隧道です。
 
IMG_2316
 
上記写真は本尊岩と隧道の現在の様子で、これは戦後に国道49号の道路改良に合わせて作り直されたトンネルです。つい最近まで使用されていましたが、過去に崩落事故なども起きて大変危険なことから、別ルートのバイパスが昨年開通して現在は通行止めとなっています。
 
 

②小花地の景勝・経岩 (※地図を確認する)

 
本尊岩を通過して少し進むと、「経岩(きょういわ?)」と呼ばれる岸壁が、本尊岩と対峙するように対岸に現れます。
 
2-2本尊岩から経岩へ
「小花地の経岩」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
2-3経岩(阿賀の里・下)
「小花地の経岩」(明治後期~大正期の写真/「阿賀の里(下)」P.123から引用)
 
この経岩も見事な絶景として有名でしたが、現存はしていません。というのも、小花地の阿賀野川左岸は石灰岩が豊富に採れたため、昭和4年に鹿瀬に建設された昭和肥料㈱(後の昭和電工㈱鹿瀬工場)が石灰窒素を製造する原料に石灰岩を必要として、経岩を中心に数年で掘り尽くしてしまったからです。
 
 

③小花地から揚川ダム方面を望む (※地図を確認する)

 
IMG_2439
 
この区間の昔の写真はなかなか見当たらないものの、これより下流の地点に昭和38年に揚川ダムが建設されたため、バードが通過した頃とは異なり、現在は美しいダム湖へと様変わりしています。上記写真は現在のダム湖で、上流から下流に向けて撮影しました。手前の橋が先ほど触れた本尊岩附近の危険箇所を避けるために昨年開通した国道49号のバイパスで、その橋の奥に東北電力が管理する揚川ダムがあります。
 
揚川ダム建設予定地
「揚川ダム建設予定地」(昭和30年代/「写真集ふるさとの百年 五泉・中蒲原・東蒲原」P.182から引用)
 
この写真は上流の国道49号から下流を撮影したもので、揚川ダムの建設直前の写真なので、まだダム湖は出現していません。ちょうど阿賀野川が見えなくなる当たりに、ダムは建設されました。
 
 

④御前ヶ淵(御前ヶ鼻)&⑤川口から望む阿賀野川 (※地図を確認する)

 
3-1御前ヶ鼻(田辺)
「伝説の淵・御前ヶ鼻」(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
 
阿賀町は平安時代中期の武将で後に将軍になったと伝えられる「平維茂(たいらのこれもち)」と因縁が深い土地で、ここは阿賀町上川地区の洞窟(御前ヶ遊窟)で暮らしていた維茂夫人が夫の死に絶望して身投げした場所と言い伝えられています(※本当は維茂は亡くなっておらず、天の邪鬼のいたずらを夫人が誤解したもの)。
 
3-2川口(柏崎)
「川口の道路から眺めた阿賀野川の景色」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
これは川口集落近くの道路から阿賀野川を眺めた写真と思われます。ちょうど阿賀野川が屈曲する部分に当たり、水流が渦を巻いて危険な個所だったようです。写真に写っている道路はおそらく「会津三方道路」として整備されたものでしょうから、バードが訪れた時はこのような立派な道路はなかったかもしれません。
 
長くなりましたので、これ以降の箇所は〔中編〕でお伝えします!
 

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