特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その③津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ〔前編〕

2014.8.13スライダー:特集1イザベラバードの阿賀流域行路を辿る
 

「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その③津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ〔前編〕

 
前回は会津から現・新潟県の阿賀町内に入り〔その②前編〕、津川の宿屋に宿泊するまで〔その②後編〕をご案内しました。
今回は、津川滞在中の様子や、阿賀野川の船旅の様子をご紹介したいと思います。
 
前回、7月1日に会津街道の悪路をやっとの思いで津川に辿り着き、バードたちはある宿屋に宿泊しました。そして、次の日にすぐ出発するかと思いきや、前日の行程で疲労したためか、バードは1日休息を取って津川の町に滞在し、翌7月3日に新潟に向かう阿賀野川の船旅に出航します。前編では、バードが書き記した当時の津川町中の様子や特徴を昔の写真などと共に振り返りたいと思います。
 

阿賀野川の交易の要衝だった津川

 
バードが1日滞在した津川は現在の阿賀町に所在し、阿賀野川と常浪川が麒麟山を挟むように合流する地点にあります。現在は昔の歴史的な情緒を残した静かな街並みが続いていますが、明治中頃までは大河・阿賀野川の交易の要衝として、船や馬、人や物資が行き交う大変賑わった河の港町でした。ちなみに、「津」には港という意味があり、河港を意味する「津川」は、日本の三大河港の1つと称されるほど栄えていました。
 
この地がなぜ阿賀野川の交易の要衝になったかというと、前回も少し触れたように、津川より上流の区間の阿賀野川は船の難所が続いて航行に不向きだったため、新潟からきた船は津川の港で積み荷を降ろし、陸路で会津に運搬する必要(※会津からの物資運搬はその逆)があったことから、津川が水運と陸運を中継する拠点として栄えた訳です。特に、会津藩が領内の年貢米を上方(大阪)で高値で換金しようと、日本海側から上方へ直送する西回り航路に乗せるため、新潟の湊まで運送する必要に迫られた江戸期以降に大いに発展しました。
 
津川町中web用
「津川湊町地図」(※「東蒲原郡史資料編5近世四」P.558を参照しながら、現在の住宅地図に史跡情報を図示したもの)
 
IMG_0424補正済み IMG_0262補正有り
写真左:津川の中町通り/写真右:雪景色の津川町中、雁木が見える(両方とも柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
津川の町中の形状は江戸初期に整備されて以降:、現在に至るまでもあまり変わっておらず、町中を貫く特徴的な鉤型クランクをはさんだ1本道が特徴です。福島方面から会津街道を進んでくると、まずこの鉤型クランクに突き当り、そこを通過すると町の中心街である中町通りに出ます。さらに進むと町の終点にある住吉神社に辿り着き、すぐ近くの港ではたくさんの船や筏がひしめきあい、人や荷物で溢れかえっていたと言われています。実際にバードも津川町中の様子をこう書き記しています。
 

私たちは明日の川の旅で食べるものを見つけるために町じゅう歩いてみた。だが手に入れることができたのは、砂糖入りの卵白でこしらえた薄い軽焼き菓子と砂糖入りの麦粉でこしらえた団子、そして砂糖を絡めた豆[豆板]だけだった。美しく趣きのある茅葺き屋根は姿を消した。津川の家の屋根は板葺きで大きな石で重しをしてある。しかし、切妻造りの家が通りに面して並び、庇の下が通路(ベランダ)[雁木(がんぎ)]となって続いており、しかも通りは右端で二度にわたって屈折し[鈎形をなし]、下手は川の堤防上にある宮[住吉神社]の境内で終わっているので、ほとんどの日本の町ほど単調ではない。人口は3,000人で、多くの物資がここから新潟に舟で送られる。今日は駄馬がたくさんいた。…(略)…[夕食に]出された鮭の切り身はこれまで味わったことがなかったほど美味しかった。私は陸路の旅の第一行程を終えることができた。新潟へは明日[七月三日]の朝、舟で向かう。

(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.239引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 

津川の特色をなした、板葺屋根、雁木、鉤型のクランク

 
板葺き屋根
津川街並みを津川西側の琴平山頂から眺めた写真を一部拡大(明治期~大正期に撮影?/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)
 
バードは津川町中を散策しながら、建物の屋根の変化に気づきます。それまでの道中では家々の屋根が「美しく趣きのある茅葺き屋根」だったところ、津川町中に入ると「大きな石で重し」をした「板葺き」に変わったのです。上記の写真は明治から大正期の間に撮影された津川の家並ですが、バードが観察したように大きな石で重しをした板葺き屋根であることが視認できます。
 
IMG_1377 IMG_1225
 
バードの観察眼は、津川町中の通りの特徴でもある雁木(がんぎ)や鉤型のクランクも見逃しません。雁木は津川では「トンボ」と呼ばれていますが、新潟県などの雪国の商店などでみられる雪除けの屋根のことで、店先の玄関の土間部分に庇(ひさし)をかけて通行人が雪の日でも通行しやすいようされたものです。上越市の高田の雁木が有名ですが歴史的には津川の方が古く、1610(慶長15)年の津川大火後の復興時に整備されたと言われています。まさに、江戸時代版の商店街アーケードですね。また、鉤型をした道路のクランクは敵の侵攻を遅くするため城下町に多く整備されたようで、1855(安政2)年発行の津川湊町を旅行者に紹介する絵図にも描かれています。
 
津川駅の図
「越後国蒲原郡会津領分津川駅の図(東講商人鑑)」(東蒲原郡史資料編5近世四」P.559から引用)
 

バードが津川で食したフレッシュサーモンとは?

  
バードは船旅の食料を求めて津川町を散策していましたが、結局入手できたのは「砂糖入りの卵白でこしらえた薄い軽焼き菓子」「砂糖入りの麦粉でこしらえた団子」「砂糖を絡めた豆(板)」といった菓子類だけでした。それほど狭い土地の中に菓子屋が多くあったわけで、訳者の金坂清則氏は注釈で「津川では江戸時代以来、飴などの菓子の製造が盛んだった(津川町史編さん委員会編前注⑬)。明治19年には12軒の菓子屋があった(東蒲原郡史編さん委員会編『東蒲原郡史資料編8民俗』)」と紹介しています。
 
さて、仕方なく宿屋に戻ったバードには夕食時に「スライスド・フレッシュ・サーモン」(原文)が出され、「これまで味わったことがなかったほど美味しかった」と感想を述べています。ちなみに、新潟県で川鮭が有名なのは村上市の三面川ですが、実は阿賀野川の方が圧倒的に漁獲量が多く現在も川鮭漁の中心地と言え、まだダムがなかった当時は津川にもたくさんの鮭が遡上してきていました。
 
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写真左:阿賀野川河口での鮭の定置網漁(松浜内水面漁協)/写真右:阿賀野川で1000本に1本の割合で獲れるマスノスケ(キングサーモン)の焼いた切り身(松浜内水面漁協組合長宅にて)
  
ところが、鮭は秋(9月~11月)に遡上する一方、バードが津川にいた時期は7月1~3日であることから、4~7月にかけて阿賀野川を遡上してくるサクラマスと間違ったのではないかと指摘されています。また、当時は川鮭を生食する習慣はなかったため、「フレッシュ」とは“獲れたて”または“塩漬けではない”くらいの意味で、実際には「焼いた(あるいは煮付けにした)サクラマスの切り身」を食べたものと推察されます。いずれにしても、「イザベラ・バード紀行 『日本奥地紀行』の謎を読む」の著者・伊藤孝博氏は、「(バードが)北日本旅行で洋食以外の食事をここまで誉めるのは、これが最初で最後である」と述べており、何だか嬉しくなりますね。
 
長くなりましたので、「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その③津川の河港から出航し阿賀野川の船旅へ〔後編〕へと続きます!
 

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