特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その⑤新潟に滞在後、阿賀野川流域を後に〔前編〕

2014.8.13スライダー:特集1イザベラバードの阿賀流域行路を辿る
 

「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その⑤新潟に滞在後、阿賀野川流域を後に〔前編〕

 
前回までは、津川から阿賀野川の急流を下って〔その④前編中編〕、小阿賀野川に入り信濃川へと抜け出る〔その④後編〕津川船道の航路を、昔の写真も交えながら紹介しました。バードは新潟に1週間滞在した後、新潟市東区を通過して北区の木崎に至り、阿賀野川流域を後にします。今回でいよいよ、イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る旅も最後になります。
 
 

新潟に1週間滞在したバード

 
信濃川河口の和船(写真アルバム新潟市の120年)ページ境目がよく映らなかったため、どちらか良い方をお選びください①(WEB用)
「信濃川河口の和船」(明治~大正期/「写真アルバム新潟市の120年」(しなのき書房)P.14から引用)
 

木立が増え、どんどん夢見るような風景になっていったのが、そのあと木立も豊かな植生もともに姿を消すと、川の両岸は砂と砂利からなる堤防のある低地が展開するようになり、[午後]三時には新潟の町外れにやってきた。屋根に石を並べた背の低い家々が広々とした砂地の上に列状に続き、その背後は樅(もみ)[正しくは松]の林の砂丘になっていた。川岸にはたくさんの張り出し縁側のある茶屋が並び、芸者をあげて酒[酒宴]に興じる人々の姿が見えた。しかし、川沿いの通りは全般にみすぼらしく寂れていたし、内側の通りも本州西岸の大きな都市とはいえ、思ったほどではなかった。海は見えず、領事館の旗がどこにもひるがえっていなかったから開港場だとは信じがたかった。私たちの乗った舟は産物や製品の輸送路になっているたくさんの堀の一つを、何百という荷舟の間を縫いながら棹を使って進み、町の真ん中で上陸した。それから何度も人に尋ねたあげく、ようやくにして伝道所[宣教師館]にたどり着いた。県庁の建物に近接してあるここで、私たちはファイソン夫妻のこの上ない歓迎を受けた。この建物は木造で、張り出し縁側もなく木も植えられていなかった。

建物は簡素で造りも単純なうえ、不便なほどに狭かったが、[西洋風の]扉と壁はとても賛沢に思えた。いつまでもがやがやとうるさく不作法な日本人の下で過ごしてきたあとで洗練されたヨーロッパ人の家庭の暮らしがどれほどありがたいものであったか、読者には想像もつかないと思う。

(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.243~244引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 
阿賀野川を通過する津川船道の航路があまりに順調だったためか、バードを乗せた船は思いのほか早く新潟の町外れに到着します。しかし、それまでの航路への称賛とは異なり、バードが信濃川から眺めた新潟の第一印象はあまり良いものではありませんでした。新潟は神奈川・函館・長崎・兵庫と共に江戸末期に決定した開港5港に入っていましたが、「領事館の旗がどこにもひるがえっていなかったから開港場だとは信じがたかった」との記述から分かるように、せっかく開港したのにイギリスが領事館を置くのみで、外国貿易も不振だったため外国人居留地もできなかったようです。というのも、新潟湊の水深は信濃川の河口にたまる大量の土砂のため常に浅く、外国船の進入が著しく困難だったことが最大の原因でした。
 
西堀と柳(写真アルバム新潟市の120年)(WEB用)
「西堀と柳」(昭和初期/「写真アルバム新潟市の120年」(しなのき書房)P.28から引用)
 
バードを乗せた船は、信濃川から縦横に張り巡らされた堀を通って、新潟の街中へ進んでいきます。下記絵図はバードが訪れる50年以上前の1823(文政6)年に作成された新潟町絵図なのですが、そこに代表的な堀やバードの簡単な足跡などを落とし込んでみました。バードも「私たちの乗った舟は産物や製品の輸送路になっているたくさんの堀の一つを、何百という荷舟の間を縫いながら棹を使って進み…」と記すように、かつての新潟には現在とは異なり多くの堀が格子状に張り巡らされ、そこを様々な物資を積んだ船が(肥船も!)賑やかに行き交っていたのです。その後、大半の堀が道路として埋め立てられ姿を消しましたが、その名残は「西堀通」や「東堀通」などの地名として現在も残っています。
 
新潟町
「1823(文政6)年の新潟町絵図」(新潟市歴史博物館所蔵/「絵図が語るみなと新潟」(新潟市歴史博物館)P.70引用)
 
バードの足跡を簡単に確認しておくと、まずバードを乗せた船は信濃川から白山堀に進入したのではないかと言われています。その後おそらく船は東堀を進みながら、「町の真ん中で上陸した」との記述から、訳注者の金坂氏によれば(バードが利用した内陸通運会社があった)「本町通九番町に近い辺り」でバードは下船したのではないかと推察されています。その後バード一行は、「何度も人に尋ねたあげく、ようやくにして伝道所[宣教師館]にたどり着いた」とあるように、現・新潟市役所本館近くにあったファイソン夫妻が住む牧師館に到着しました。そもそもバードが新潟に立ち寄った当初の目的は、東京で出会ったファイソン夫妻の宣教地である新潟を訪れ、彼らの布教活動の様子を視察することでした。
 
本町通六番町の市場(写真アルバム新潟市の120年)(WEB用)
「本町通六番町の市場」(明治~大正期/「写真アルバム新潟市の120年」(しなのき書房)P.17から引用)
 
その後、バードは1週間にも渡って新潟市に滞在し、様々な記録を精力的にレポートしています。新潟における伝道状況の覚書、「寺町通り」(現・西堀通り)に並ぶ仏教寺院の視察、新潟の様々な店屋の散策、日本の食事情に関するレポートなど…当時の新潟や日本人の社会風俗や生活様式ををうかがい知ることができる貴重な記録を残しました。新潟に対するバードの第一印象は決して良くなかったものの、街に滞在して散策する中で、「絵のように美しい町通り」「これまで見てきた町の中では最も整然とし、最も清潔で、見た目にも最高に心地よい」と絶賛するなど、すぐに好印象へと変わっていきます。実際、開港後に新潟を訪れた外国人の中には、バード以外にも新潟の町中の清潔さを称賛して記録に残した人もいたほどで、外国人も驚くほど美しかったのでしょうからこれは大変嬉しい指摘ですね。
 
通りと堀(完訳日本奥地紀行2)WEB用
 
上記の絵は新潟の街を散策して印象的だった「掘」をバード自身が「通りと掘」と題してスケッチしたものです。新潟の町中は厳密には阿賀野川流域から外れてしまいますのでこれぐらいにとどめ、後編ではいよいよ新潟を出発して阿賀野川流域を後にする行程を辿って終わりにしたい思います!
 

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