特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その④ライン川より美しい阿賀野川の船旅から新潟へ〔後編〕

2014.8.13スライダー:特集1イザベラバードの阿賀流域行路を辿る
 

「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その④ライン川より美しい阿賀野川の船旅から新潟へ〔後編〕

 
前回までの前編及び中編では、バードが「ライン川より美しい」と絶賛した阿賀野川の「津川急流下り」について、過去・現在の写真を織り交ぜながら地図を辿って紹介しました。今回後編では、山岳地帯から抜け出た船が広大な越後平野の中を通過して、新潟近辺へ辿り着くまでを紹介します。
 
 

阿賀野川中流域から小阿賀野川への分岐地点まで

 
バードを乗せた船は山岳地帯を抜け出て、大河が緩やかに蛇行して流れる平野部へと入ります。ここから下流域には、信濃川と阿賀野川という新潟県を代表する2大大河が、膨大な土砂を堆積させて生み出した越後平野が広がっていて、バードはその平野を流れる大小の河川を船で進み阿賀野川流域を通過していきます。
 

(安息の一日)

うっとりするような風景が32イル[19キロ]にわたって続いた急流下りが終わると、津川川[阿賀野川の誤記]は、川幅の広い水量豊かな流れとなって木立の多いほとんど真っ平らな農村地帯を大きくうねるように流れた。背後が雪をかぶる山々によって画されているところもあった。川面に展開する活動は、見ていてとても心地よかった。多くの丸木舟が野菜や小麦を積んだり、学校から家路につく少年少女を乗せたりしながら往き交っていた。白帆をたたみ12艘が一体となって水深の深い川をゆっくりと進んでいったり、陽気に大声をかけあう船頭にひかれて浅瀬を進んでいく平底舟(サンパン)の姿もあった。

(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.242引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 
最後の帆掛け舟BW完成-2
「阿賀野川・最後の帆船」(昭和25年、初代・安田橋の上から撮影/撮影:木村清氏・所蔵:木村仁已氏)
 
上記の写真はちょうど阿賀野川が平野部に入る直前の箇所で、昭和25年に初代・安田橋の上から(下流に向けて)撮影された写真で、岸に寄せられたサンパ舟や橋の下をくぐるため今にも帆を下ろす態勢に入った長舟が写り込んだ大変貴重な写真です。平野部に入ったバードが最初に目にしたのも、こんな光景だったのかもしれません。
 
阿賀野川流域(大正期以前・下~中流域)バージョン4
 
上記地図は大正初期の越後平野の地形に今回バードが通過するルートを示したもので、上記写真の撮影場所は阿賀野市と五泉市が隣接する①の地点になります。この阿賀野川中流域は大河が山から平地へと抜け出る扇状地となっており、昔は越後平野全体の河川が日本海への排水が困難だった事情もあって、この一帯も河道が頻繁に変遷したり網の目状に広がるなど昭和に入るまで流路が安定しませんでした。明治期や大正期にもまだその名残を残していて、上記地図の地形をご覧いただいても、安田村(現・阿賀野市)や巣本村(現・五泉市)附近の阿賀野川の流路は入り組んでいて複雑です。
 

②阿賀野川右岸の護岸工事&③現在の千唐仁(せんとうじ) (※地図を確認する)

 
004-1
「阿賀野川中流域の護岸工事」(昭和初期・砂山~小浮/所蔵:広田哲男氏)
 
上記写真の場所は、阿賀野川右岸の砂山から小浮までの間の地点で、昭和初期に撮影されました。これは阿賀野川中流域の護岸工事の様子で、大正期から昭和初期にかけて実施された国営の阿賀野川改修工事の一環として実施されました。この大規模な公共工事が実施されたおかげで、中流域における阿賀野川の流路はやっと安定します。
 
IMG_0971
「阿賀野川の情景(阿賀野市千唐仁/撮影:山口冬人氏)」
 
これは阿賀野川右岸から下流に向けて撮影された現在の写真で、場所は小浮地域に隣接する千唐仁(せんとうじ)という集落です。この地域はかつて多くの人が船頭を生業としており、サンパ船や長舟、時にはコーレンボウなどの舟を操って、阿賀野川と信濃川の間を往復して物資の運搬などを行っていました。現在は現役の船頭さんがいなくなってすでに久しく、高齢化が進展した地域となっています。
  

③分田・稗河原場の川砂利採取の写真 (※地図を確認する)

 
022 023
「川砂利採取」(昭和30年代初期・分田稗河原場/撮影:村上孟氏・所蔵:村上直行氏)
 
写真は昭和30年代初期に、分田・稗河原場(ひえがわらば)の川砂利採取の様子を撮影したものです。稗河原場は千唐仁に隣接する集落で、昔から集落全体で砂利採取に取り組んできた地域ですが、現在でも分田砂利組合として存続しています。というのも、阿賀野川では河床低下を防ぐため昭和50年前後で川砂利採取が制限され、それ以降は砂利採取の舞台を川から陸へと移さざるを得なかったのですが、河道の変遷が頻繁だったおかげで阿賀野川近くの地下にも良質な砂利が豊富に堆積しており事業の継続が可能だったからです。
 

④いつ阿賀野川から小阿賀野川へと入ったか? (※地図を確認する)

 
当時の津川船道のコースに従って、阿賀野川の下流域へと差し掛かる直前で、バードを乗せた船は小阿賀野川へと入っていきます。しかし、バードの旅行記を読んでも、阿賀野川から小阿賀野川へと進入する際の描写が見当たりません。
 

その後、川は幅が広く水深が深くなり、浮遊する大量の水草が発する沖積平野特有の匂いを漂わせながら堤防[自然堤防]の間を静かに流れるものへと変化した。堤防には木々や竹が茂り、また辺りの田園を隠すほどに高かったから、家はほとんどと言ってよいほど見えなかったけれど、人がたくさんいる気配はずっと感じられた。ほぼ100ヤード[約90メートル]ごとに狭い小道が[堤防の]茂みを抜けて川まで通じ、その傍らには一艘の丸木舟がつながれていた。また、桶と、石が両端に付き上下に動く竹棒を備えた絞首門のような構築物が途切れることなく姿を見せるので、給水を川に依存する家が近くにあることがわかった。さらに、堤防のうち川に出られる所では馬が柄杓で水をかけて背中を洗ってもらったり、子供たちがぬかるみの中でころげ回ったりする光景をいつも目にするし、家鴨(あひる)のガーガーという鳴き声や人間の話し声、活動に伴ういろんな音が草木の茂る岸辺の向こうから私たちの舟に向かって流れてきた。このため、たとえ姿は見えずとも岸辺にたくさんの住民が住んでいることを感じ取れた。暑く静かな午後、起きているものは船頭と私を除いてだれ一人いなかった。まるで夢を見ているような心地よい午後だった。ゆったりと下っていくと、時折、葡萄の枝が水平な棚に這うようにされたブドウ畑が見えるようになった。竹を横木にしたその棚は40フィート[12メートル]もの長さがあり、杉の棒を真っすぐに立てて釘で固定した支柱の高さは20フィート[6メートル]あった。そして棚がまだ葡萄の枝でいっぱいでなかったので、大麦の小さな束が横木にまたがるように掛けて乾してあった。

木立が増え、どんどん夢見るような風景になっていったのが、そのあと木立も豊かな植生もともに姿を消すと、川の両岸は砂と砂利からなる堤防のある低地が展開するようになり、[午後]3時には新潟の町外れにやってきた。

(「完訳 日本奥地紀行1 横浜-日光-会津-越後」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.242~243引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 
満願寺の合流点
「現在の阿賀野川から小阿賀野川への分岐点」(※現在は満願寺閘門〔手前〕と小阿賀樋門〔奥〕が分岐口に設置されている)
 
訳注者の金坂清則氏によれば、冒頭の一文「その後、川は幅が広く水深が深くなり、浮遊する大量の水草が発する沖積平野特有の匂いを漂わせながら堤防[自然堤防]の間を静かに流れるものへと変化した」が、阿賀野川から小阿賀野川への進入を表現した一文だと解説していますが、だとすると「川は幅が広く」ではなく「狭く」ではないかとバードの記述に首をひねっています。
 
また、「イザベラ・バード紀行 『日本奥地紀行』の謎を読む」(無明舎)の著者・伊藤孝博氏は、「川は幅が広く」の記述は船が小阿賀野川から信濃川へと抜け出た記述ではないかと解説していますが、そうだとするとその直前の記述が小阿賀野川に相当し「32マイル[19キロ]にわたって続いた急流下り」で阿賀野川は終了したことになり、実際の距離(30㎞以上)と矛盾します。
 
やはり訳注者の金坂清則氏の指摘どおり、「川は幅が広く水深が深くなり」のフレーズ以降が、小阿賀野川の記述に該当していると推察されます。というのも、その後に「家鴨(あひる)のガーガーという鳴き声や人間の話し声、活動に伴ういろんな音が草木の茂る岸辺の向こうから私たちの舟に向かって流れてきた」との記述があるため、(阿賀野川や信濃川に比べれば遥かに)堤外地の狭い小阿賀野川の特徴に符合すると考えられるからです。
 
満願寺閘門&小阿賀樋門 満願寺の閘門(田辺)
写真左:満願寺閘門と小阿賀樋門の解説板/写真右:満願寺閘門に進入した筏流し(昭和初期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
 
現在の分岐口には満願寺閘門と小阿賀樋門が設置され、船などが阿賀野川から小阿賀野川へ進入するには、満願寺閘門にいったん入る必要があるため、小阿賀野川への進入に気がつかないことは絶対にあり得ません。しかし、これらの河川構造物は大正4年から昭和8年にかけて実施された国営の阿賀野川改修工事の一環で設置されたもので、バードが通過した明治11年にはありませんでした。
  
阿賀野川改修工事
(※左図は内務省資料「阿賀野川改修工事平面図」〔中村善一氏所蔵〕を参照して作成)
 
大正期以前の阿賀野川と小阿賀野川の分岐口は、上記の図のとおり決して分かりやすいものではなく、阿賀野川自体も極端に蛇行していたため、もしかしたら小阿賀野川への進入路が阿賀野川の本筋だとバードが勘違いしてしまった可能性は十分にあります。ちなみに、この大正期に開始された国営の阿賀野川改修工事は、阿賀野川の河口から中流域にかけて実施された非常に大規模な河川工事で、この満願寺附近の極端に蛇行した2河川の流路も見事に直線化され、それ以降は広範囲に渡る洪水の被害が起きにくくなりました。
 
 

小阿賀野川から信濃川、そして新潟へ

 
さて、小阿賀野川を船が進む中で、バードが「桶と、石が両端に付き上下に動く竹棒を備えた絞首門のような構築物が途切れることなく姿を見せるので、給水を川に依存する家が近くにあることがわかった」と観察している記述があります。訳注者の金坂氏は「バードが記す構築物は形状的には給水のためのはねつるべを思わせる」と解説していますが、「現地では存在したことができないし、地形条件から井戸水が利用できるので、川からの取水は考えにくい。水関係の構築物で考えられるのは水車だが、形態が描写と異なるので、この構築物は特定できない」と特定しかねています。
 
1137
「はねつるべ」(「農民生活変遷中心の滝沢村誌」ホームページより引用)
 
確かに「桶と、石が両端に付き上下に動く竹棒を備えた…構築物」と記述されると、上記写真のように「はねつるべ」を連想してしまいます。これが堤外地にあった田畑などへの給水設備として利用されていたのかもしれませんが、金坂氏も考えあぐねているように真相は定かではありません。もし明治期の小阿賀野川(や信濃川)沿岸の風物に詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけますと幸いです。
 

⑤木津切れの跡地 (※地図を確認する)

 
木津切れの修復工事・大正2年8月28日の木津切れは亀田郷一帯を水の底に沈めた。復旧には、高田の工兵隊まで動員されたが、本格的な改修工事は水の引いたあとに郷内の各集落から人足が集められた。(写真集ふるさとの百年 五泉・中蒲原・東蒲原) 木津切れの改修工事・8月27・28日の両日、阿賀上流に豪雨が降り、木津の土手は200m以上が破れた。死者2人、収穫は3分。改修工事は各村から屈強の若者が充てられた。(大正2年)(写真集ふるさとの百年 五泉・中蒲原・東蒲原)
「木津切れした小阿賀野川堤防の復旧工事」(大正2年/「写真集ふるさとの百年 五泉・中蒲原・東蒲原」P.132から引用)
 
小阿賀野川の水害の歴史が最も色濃く残る箇所が木津の堤防です。木津はその名の通り「材木が集まる港」として栄え、小阿賀野川の河川交通の要衝の一つでした。同時に最も堤防が決壊しやすい危険個所としても知られ、江戸の寛永期から数えて実に13回も破堤しています。特に大正2年8月終わり頃の大雨時に発生した「木津切れ」と呼ばれる破堤は、昔で言う「横越島」(現在の「亀田郷」)に当たる広大な範囲が水浸しになる大惨事となり、この災害などがきっかけとなって国営の阿賀野川改修工事がスタートしたほどです。
 
木津切れの石碑 横越嶋絵図
写真左:木津切れ跡の石碑/写真右:享保期の横越島絵図(亀田町史編纂室所蔵資料を基に作成)
 

⑥・⑦・⑧両川地区の小阿賀野川 (※地図を確認する)

 
能代川を越えて・下流 ワンド
写真左:⑥二本木地区の小阿賀野川(※奥の橋はJR信越本線)/写真右:⑦両川地区の阿賀野川(※奥に川を進むとワンドがある)
 
上記写真はいずれも上流から下流に向けて小阿賀野川を撮影しています。現在の様子なので、バードが通過した当時とは風景もかなり異なっていると思いますが、こうした中をバードを乗せた船は進んでいきました。ぶどう畑の棚の描写が出てきますが、もしかしたらこのあたりの川岸で栽培されていた光景だったかもしれません(※ぶどうよりも梨の栽培の方が有名です)。
 
小阿賀野川と信濃川の合流
 
そして、いよいよ小阿賀野川と信濃川の合流する地点(⑧)へと到達します。この合流地点には亀田郷側に酒屋と呼ばれた集落があり、阿賀野川・小阿賀野川系の「津川船道」、あるいは、信濃川系の「長岡船道」といった2大河川交通の要衝として大いに栄えた港だったと言われています。その名残でしょうか、写真撮影した日には偶然にも、砂利船(鉄製コーレンボウ)が信濃川を航行していました。
 
これ以降、バードを乗せた船は信濃川を下っていき、「木立も豊かな植生もともに姿を消すと、川の両岸は砂と砂利からなる堤防のある低地が展開するようになり、[午後]3時には新潟の町外れにやってきた」と記述されているように、かなり早いペースで新潟湊へと到着しました。次回はいよいよ、新潟に滞在したバードが阿賀野川流域を通過していく最終回になりますので、ご期待ください!
 

イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る 連載記事一覧

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特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その④ライン川より美しい阿賀野川の船旅から新潟へ〔後編〕 3件のフィードバック

  • 影山 和則様のコメント: 2016年8月20日

    イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る はすばらしい内容で驚きました。取材が行き届いていて、編集者の主張が伝わってきます。私は阿賀野川の川船について調べているのですが、大変参考になりました。ありがとうございます。
    今後も、すばらしい記事掲載をお願いいたします。埼玉県さいたま市 影山

    • 事務局スタッフ様のコメント: 2016年8月20日

      影山様
      この度は「阿賀野川え~とこだ!流域通信」をご覧くださいまして、誠にありがとうございます。

      大変ありがたいお言葉を頂戴しまして、記事作成者含め事務局スタッフ一同、非常に嬉しく存じます。
      今後も阿賀野川流域地域の魅力をお伝えできるよう記事作成を進めてまいります。
      今後とも「阿賀野川え~とこだ!流域通信」をどうぞよろしくお願いいたします。

  • masako st james様のコメント: 2021年7月31日

    突然今頃、外国から しかも 思い出の中からの想像で恐れ入ります。

    コンピューターをあけ インターネットで 日本の古い写真など 眺める中で、偶然 思いもかけず イザベル バード女史を知り
    彼女の紀行文を読みたいと思った時に 貴方の素晴らしい記事が 目に止まり、拝見させて頂いております。
      
         〜*****〜

    まだ途中なのですが イザベルの目に沢山映った 不思議な構築物
    と 葡萄棚 とのことで 思い浮かんだことが ございまして 
    コメントを させて頂きます。
    ( 影山様のコメントから 5年後 大変遅ればせですが。 )

         〜*****〜〜*****〜
    関東に生まれ育った私ですが 
    お盆の頃 新潟に参った事は 数回 ございます。
    60数年前 40年前、35年前 の新潟 西蒲原郡の水稲平野と民家
    の風景には 思い出がございます。

    近年になり 2019年まで 時間と経済の許す限り 
    家族と あるいは1人で 新潟の墓参りに 帰国して参りました。

    墓参を通じて 知った越後平野の四季

    雪の少ない正月 稲作跡に休む 白鳥の群れ
    揃った苗の揃う 鏡のような田の水を 突然動かす かえる 
    夏の日が熱く照りつける緑の田園に 点々と涼しさをくれる白鷺達 
    黄金色の田園を行く列車に 飛び立つ無数の野鳥 又それらが戻る様子 

    それらを思い出し 浮かんだ事がございます。
         
         〜*****〜〜*****〜

    問題の 跳ねつるべ ひょっとして 実った稲の鳥追い 用
    のものだったのではなかったのか?と。

    また ヨーロッパ人の彼女の目に 葡萄棚 と思われていたものは
    形状からすると 今はも見られなくなってしまった
    ハザ(?) という 稲を干すための 棚のような気がします。

    60年〜50年前の 西蒲原の水田では 杉の木の柱の代わりに
    ひょろっとした背の高い木が 何本か 並んで植えられており
    そこに横木が渡されていた と 遠目からの 記憶です。 

    関東等の 農家の水田風景とは 子供の目にも異なりが感じられ
    遠くから目立つそれらは 長時間 車窓に続く単調な水田風景に
    独特の味わいを 醸し出しておりました。

    子供の頃の夏に見ただけで 近年は越後平野の水田は
    所々 大きなショッピングモールなどに変わったりしつつ
    都会・郊外を抜けると 
    かつてと同じように 広々続く田園風景はあっても 
    あの 木が並び横棒を渡されたもの は 全く姿がなくなり
    一体あれは 何だったのか 

    数年前、お寺の方に伺って ようやく
    稲を束ねて 干すためのもの で ハザ 
    と 呼ばれるものだった と知りました。
    乾燥機で 大規模に乾かせるようになり消えていった風物。

    葡萄棚には まだ緑の葉が見えない状態 だから麦の穂をかけていた
    と書かれている様ですけれど 
    イザベルが日本を旅した6〜9月であれば 
    ぶどうは すでに 葉も実もあるはず。

    水田以外に 麦畑も持っている?山間の近い所などでは
    初夏に刈った麦を束ねて 干していたのではないでしょうか 
    彼女はそれを観察したのだろうと 思います。

    梨 や 無花果 や 柿 は 新潟で 有名な産物の気がします。

    ぶどう … 日本の葡萄棚って 四方に張っていた?ような
    ぶどう狩りをさせてもらったイメージからですけれど。

    ヨーロッパ式に 北米でも ぶどう棚はライン状ですが…
    だから イザベルには葡萄棚のイメージだった???

       〜*****〜〜*****〜
    長々と お邪魔致しましたが 以上です。
    また 貴方の記事に戻り 
    ワクワクと 読ませていただきます。

       〜*****〜

    素敵な 記事を ありがとうございます。
    新潟は 広い県で 歴史的にも興味深く 大好きです。
     
    時間のある時に 貴社の 別の記事も読ませていただきたいと
    楽しみに致しております。

    バンクーバー まさこ 

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