【final】特集!阿賀野川ものがたり第1弾「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その⑤新潟に滞在後、阿賀野川流域を後に〔後編〕

2014.8.13スライダー:特集1イザベラバードの阿賀流域行路を辿る
 

「イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る」その⑤新潟に滞在後、阿賀野川流域を後に〔後編〕

 
前編でお伝えしたとおり、バードはファイソン夫妻の牧師館を宿代わりに1週間も新潟に滞在し、新潟の街中を散策して様々なレポートを残します。キリスト教の伝道状況や日本の寺院を視察したり、大変清潔な新潟の町中の様子だけでなく、書店や雑貨屋など様々な店屋まで描写し、タクアンを多食する日本の食事の状況もまとめるなど、これらに目を通すと当時の新潟や日本社会の様子が大変生き生きと伝わってきます。後編では新潟を出発してから阿賀野川流域を後にするまでをお伝えして、本連載を締めくくりたいと思います。
 
阿賀野川流域(大正期以前・下~中流域)バージョン5
 
 

新潟を出発して通船川へ

 
バードは7月3日の夕方に新潟に到着しますが、1週間滞在した後、7月10日の早朝に新潟を出発します。

私が新潟を発つ時、二人の外国人女性とやはり二人の金髪の幼女、そして毛の長い外国の犬一匹と外国人紳土一人が[船着場まで]ついてきてくれた。このため、もし外国人紳士一人だけだったら人目をひかなかっただろうに、多くの群衆が親切心からとはいえ堀の岸辺までついてくる羽目になった。住民の二人がその二人の子供を肩車にすると、ファイソン夫妻は私に別れの挨拶をしようと堀の際ぎりぎりまで歩いてきてくださった。〈通い舟〉(サンパン)[アンコ船]が幅の広い信濃川の渦巻く流れへと勢いよく飛び出した時、私はとても寂しい気持ちに襲われた。船は信濃川を横切ると、両岸を堤防に囲まれた狭い新川を棹をさして遡り、次いで[長雨で]増水した阿賀野川をやっとのことで渡った。

(「完訳 日本奥地紀行2 新潟-山形-秋田-青森」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.69から引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 
通りと堀(完訳日本奥地紀行2)WEB用 あんこ舟(早船)(挿絵が語る松浜のくらし)
左図:「通りと掘」(バードの直筆スケッチ/「完訳 日本奥地紀行2 新潟-山形-秋田-青森」P.41から引用)/右図:「早船」(「挿絵が語る松浜のくらし」(絵文・斉藤喜三/発行・挿絵が語る松浜のくらし製作実行委員会)P.75から引用)
 
当時は新潟から松浜や木崎(いずれも新潟市北区)、亀田(江南区)に向かうには、小運河を航行するアンコ舟と呼ばれる小型船が利用されていました。この船は民俗学者の小林存(ながろう)によれば、船体上部の大半が苫(とま)屋根に覆われていて、鮟鱇(あんこう)のように膨らんで見えることから、あんこう舟やアンコ舟と呼ばれるようになったとのことで、バードが描いた新潟の堀のスケッチにも描かれていると言われています。陸上交通の発達に伴い衰退の一途をたどりましたが、松浜では昭和期に入っても「早船」と呼ばれる上記スケッチの貨客船が新潟・松浜間を航行していたそうです(※この頃は苫屋根ではなくなっている)。
 
新潟町
「1823(文政6)年の新潟町絵図」(新潟市歴史博物館所蔵/「絵図が語るみなと新潟」(新潟市歴史博物館)P.70引用)に加筆
 
このアンコ船は当時は新潟の御祭(ごさい)掘が発着場になっていたようで、バードもそこからアンコ船に乗船して(白山堀から信濃川へ出たとする説もありますが、「船は信濃川を横切」って通船川に入ったとする記述との整合性を考えると)艀下川を下って信濃川へ出たのではないかと推察されます。ちなみに、バードは「両岸を堤防に囲まれた狭い新川を棹をさして遡り」と記述していますが、この新川とは「通船川」のことで、現在でも阿賀野川方面にある通船川沿いのある地域の町名は「新川町」などと呼ばれています。
 

 
 

大昔の阿賀野川の名残だった通船川

 
さて、バードがアンコ船で遡上した通船川ですが、歴史や地理に詳しい地元の方はよくご存知なのですが、江戸前期までそこを阿賀野川が流れていたことは、特に若い世代などにはあまり知られていません。
 
阿賀野川の河口開削
上図:正保越後国絵図(「蒲原(かんばら)の意味を知っていますか?」〔発行:新潟県新発田地域振興局〕P.1~2引用&一部追記)/下図:現在の地図に当時の河川の地形等を落とし込んだもの(同上P.3~4参照)
 
上図をご覧いただくと、越後平野の一部をなす北蒲原を走る様々な河川が、巨大な新潟砂丘にはばまれて日本海への排水が困難となり、大小の潟を形成しながら砂丘列に沿って横に流れ阿賀野川と合流していたことが分かります。その大河・阿賀野川も同じく巨大な砂丘列に本来の河口を阻まれて、現在の新潟市東区(を流れる通船川の辺り)を蛇行して流れ、河口付近で信濃川と合流してようやく日本海へと排水していました。
 
阿賀野川の河口開削後
松ヶ崎掘割御普請絵図(「蒲原(かんばら)の意味を知っていますか?」〔発行:新潟県新発田地域振興局〕P.7引用&一部追記)
 
こうした特殊な地形が大きな要因となり、北蒲原の大地では洪水や水害が頻発していたところ、江戸中期の享保期に始まった紫雲寺潟の干拓を契機に、現在の阿賀野川の河口付近に掘割が開削され、一定量以上のオーバーフローする水だけ日本海へ排水されることになりました。ところが、翌年の雪解け水の勢いで掘割が崩壊して河口が広がり、一気に本流化して現在の河口になってしまったため、新潟市東区を蛇行して流れていた旧・阿賀野川は水量がめっきり少なくなり、後の時代に狭い川幅の通船川として開削され直したのです。この大異変で深刻な打撃を受けたのが新潟湊で、阿賀野川から流れ込む豊富な水量がめっきり減って湊の水深が浅くなってしまい、明治期には外国船の進入が困難となり外国貿易が不振を極める原因となりました。
 
 

北蒲原の交通の要衝・木崎を通過して、阿賀野川流域外へ

 
通船川を遡上したアンコ船は阿賀野川左岸へ出ると、梅雨の影響で増水した阿賀野川を何とか横切って、右岸の派川(はせん)加治川へと入り、北蒲原の大地を再びアンコ船で遡上します。

狭くて濁った加治川ではむかむかするような肥料を積んだ小舟に何度も行く手を阻まれたり、延々と続く西瓜や胡瓜の畑と、川面の風変わりな活動に驚いたりした。船は棹を使いながら六時間の間苦労して進み、木崎に着いた。ちょうど10マイル[28キロ]来たことになる。ここからは、三台の〈人力車〉をひく車夫が一里[4キロ]当たり四銭五厘という安い料金で私たちを乗せ、足取りも軽く20マイル[32キロ]走ってくれた。…(中略)…沿道の多くの部分に連なる農業集落-築地(ツイジ)、笠柳(カサヤナゲ・かさやなぎ)、真野(モノ・まの)-はこぎれいで目隠しのため道側に笹垣を設けてある家が多かった。…(中略)…砂丘と砂丘の間の砂地では、肥料を大量に施して[英国の]菜園のような[集約的な]栽培が行われ、胡瓜、西瓜、南瓜、里芋、薩摩芋、玉蜀黍、茶、鬼百合、大豆、玉葱などの作物がみごとに栽培されていた。胡瓜は豌豆(えんどう)のように支柱仕立てになっていた。林檎や梨の木が高さ8フィート[2.4メートル]の格子状の棚の上で、横方向に枝を伸ばした果樹園が広々と続く風景も目新しかった。

(「完訳 日本奥地紀行2 新潟-山形-秋田-青森」(イザベラバード・著/金坂清則・訳注/平凡社東洋文庫)P.69~70から引用。なお[  ]内は訳者等による補足説明)

 
川で肥舟に遭遇するのはかつての新潟平野ではよく見られた光景で、当時の新潟町は堀が縦横に張り巡らされていたことから、各家の排泄物の回収も舟が行っており、それを田畑の肥料として農村地帯まで川を伝って舟で運んでいたそうです。バートが遭遇してしまったのもそうした肥舟の一団だったと思われるのですが、事情を知らない外国人はバードでなくとも驚いたことでしょう。
 
新発田川(昭和30年頃)
「木崎地内から撮影した新発田川」(昭和30年頃/「写真集ふるさとの百年 豊栄・北蒲原①」P.7から引用)
 
なお、バードはアンコ船がずっと派川加治川を進んだものと勘違いしていますが、加治川を通過したのはほんの一瞬で、行く先が木崎であることから実際には新発田川を進んだものと考えられています。この当時の新発田川は新新発田川と旧新発田川の二手に分かれていましたが、木崎へ向かう舟は新発田街道のすぐ脇を並行して流れる旧新発田川を通過するのが一般的でした。現在は県道(3号線)となった新発田街道は新潟・新発田間を結ぶこの地域の主要道路で、その途中にある木崎は旅人の宿屋や茶屋が軒を連ねるなど交通の要衝として当時は栄えており、別名・木崎街道などと呼ばれることもありました。
 
木崎(明治33年)(写真集ふるさとの百年豊栄・北蒲原①)
「宿屋が軒を連ね人力車も見える木崎地内」(明治33年/「写真集ふるさとの百年 豊栄・北蒲原①」P.13から引用)
 
バード一行は木崎に到着すると下船して、今度は人力車を使って新発田街道を進み、旧中条町(現胎内市)を目指します。旧豊栄市内の笠柳、聖籠町の真野、旧中条町の築地と通過していきますが、木崎から連綿と続く道中の景観は現在も残る砂丘地独特のもので、砂地での栽培が適しているスイカ畑など、砂丘と砂丘の間に広がる低地の「サンベ」(山辺)を利用して栽培される農産物への記録が目立ちます。特に木崎周辺は明治期にはすでに梨の産地として有名で、バードは観察眼鋭く格子棚が広がる梨の果樹園も発見して記録に残していました。
 
木崎梨園-春季棚掛の實況 北蒲原郡木崎村梨園之一部
写真左右:木崎梨園の様子(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
 
こうして、阿賀野川流域独特の景観の一つである新潟砂丘の風物を楽しみながら、バード一行は阿賀野川流域を後にします。バードの旅は全体的に道中の悪路が続いて大変な目に遭うことが多いのですが、この阿賀野川流域内を辿った道程は舟運を中心に比較的快適に過ごすことができたようで、明るい肯定的な評価の記述が多かったような印象を受けました。現代の豊かな社会に生きる私たちも、バードの旅行記を丁寧に読んでいくことで、かつての阿賀野川流域がどのような地域だったのかその一端を垣間見ることができて、少しはイメージできるようになった気がします。この連載では今後も、昔の阿賀野川にまつわる歴史や文化を光と影の区別なく掘り下げ、皆さんと一緒に勉強して参りたいと考えておりますので、お付き合い願えれば幸いです。
 

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