2013年12月01日
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新潟の“潟”は、巨大砂丘が生み出した!?
ちょうど先週、阿賀野川流域イベント情報にて、潟の魅力を広げる新潟市のキャンペーンを紹介しました。ところで、阿賀野川流域を含む新潟平野には、「福島潟」「鳥野潟」など…なぜ「潟」が多いのでしょう? そう言えば、「新潟」という名前も「新しい潟」と書きますね。
福島潟、環境と人間のふれあい館とビュー福島潟(平成22年、撮影:山口冬人氏)
「潟」とは「砂州によって外海から分離されてできる海岸の湖」という意味で、英語で言えば「ラグーン(lagoon)」ですが、私はずっと潟とは「海の名残り」程度に理解してきました。しかし、阿賀野川流域の地形の成り立ちを調べていくと、どうやら少し事情が違うとわかります。新潟の「潟」には巨大な砂丘列が関係しているようです。
阿賀野川流域の地形図を眺めると、内陸部から海岸にかけて、海岸線と平行に走る何列もの巨大な砂丘列が形成されていることが分かります。これが全国的にも珍しい新潟砂丘と呼ばれる大砂丘列です。これが新潟の「潟」を形成した原因となった地形だとすれば、そもそも新潟砂丘はどのようにして形成されたのでしょう?
まず、最も内陸にある砂丘列「新砂丘Ⅰ」が形成されたのが、今から約7,000年前の縄文時代にさかのぼります。この頃氷河期が終了し、氷河が溶けだしたことから、海面が上昇し陸に押し寄せました。これを「縄文海進」と言い、これによって図のように海域が内陸に広がり、押し寄せられた土砂が最初の砂丘列を形づくります。そして、この影響で河川水が平野に湛水し始めたことが確認できます。
次に、約3,000年前になると、次の巨大な砂丘列「新砂丘Ⅱ」が形づくられていきます。この分厚い砂丘の壁によって、さらに河川の排水が困難になっていき、この頃から「福島潟」や「鳥屋野潟」が出現します。なお、この時点では、阿賀野川と信濃川はまだ海へと直接排水されています。
さらに、約1,000年前になると、「新砂丘列Ⅲ」と呼ばれる最後の方の砂丘列が形成されているのがわかります。そして、最後の砂丘列が生まれた古墳時代以降、阿賀野川は現在の河口を砂丘列にふさがれ、通船川の附近を流れて信濃川と合流しており、阿賀野川下流域の排水はいよいよ困難を極めていきました。
このようにして、新潟の場合、巨大な砂丘列に海への排水を阻まれた河川水が、行き場をなくして水浸しの大地を出現させ、その中でも特に低湿地帯で大地の沈降が激しかった部分に水が集まり、最終的に潟を形づくっていった経緯が読み取れます。つい戦前まで、下流域に住む人々の暮らしは水との闘いだったと表現されますが、新潟の大地独特のこうした事情が背景にあったのですね。
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