2012年07月05日

カテゴリー:コラム

【コラム】阿賀野川流域・地域再生の軌跡~特別編1:草倉銅山レポート

◆草倉銅山を簡単に紹介したレポートがどこにもない!

事務局のYです。FM事業を振り返る短期集中連載コラムその4をお届けする前に、コラム特別編1「草倉銅山レポート」をお送りします。なぜかというと、次回に掲載予定の記事の主役が草倉銅山なのですが、このブログのどの記事を探してみても、草倉銅山を詳しくアップした記事が見当たらない!

草倉銅山というフレーズは頻出してるのに、肝心の説明が意外にないのです…。「灯台もと暗し」でした。そこで、一念発起して、草倉銅山をごくごく簡単に紹介した記事をアップしますので、鉱山に興味がある方は色々と参考にしてください!(※今回紹介するのはほんのさわりですが…)

ちなみに、今回のレポートは、過去に地元・阿賀町の方々などから多くのことを教えていただき、様々な資料をご提供いただいたことで、ここまでまとめることができました。関係者の方々へはこの場を借りて改めて感謝申し上げます。

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◆草倉銅山レポート

草倉銅山とは何なのか、ご存じない方も多いだろう。これは阿賀町(旧鹿瀬町)にかつてあった銅山である。江戸時代の元文4年に発見され、津川の山林王・平田治八郎の手を経由して、明治8年、後に古河財閥を築く古河市兵衛が購入し、本格的な開発が始まった。最盛期は、麓の角神に近代的な精錬所が稼働し始めた明治15年から、明治20~30年にかけてである。全国的に見れば産銅量はそれほどでもなく、やがて鉱床は貧相化し、磐越西線(当時は岩越線)が完成した大正期に入ると閉山された。

現在の閑散とした光景からは俄かに信じがたいが、当時は全国から多くの鉱夫やその家族が集まり、最盛期でおよそ六千人も暮らしていたらしい。山奥の本山には採鉱事務所や社宅をはじめ、小学校や病院、派出所、商店や市場、神社などがあり、盛大な祭りが催されるなど賑わいを見せていた。加えて、当時は珍しい電話も設置されていて、牛乳を飲む習慣もあったなど、先進文化がかなり入ってきており、修学旅行で見学に訪れた小学生などは電話での会話を楽しんだそうである。

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閑散とした本山の住居跡(撮影:山口冬人氏)

良いことばかりでもなく、近隣の集落は精錬所から出る煙害に苦しんだらしい。精錬所は銅鉱石の中に混じる不純物を取り除く施設なのだが、銅鉱石を燃焼することで不純物の硫黄が二酸化硫黄に化学変化し黒煙となって排出された。それが近隣集落の栗林を枯らして、損害を与えていたようだ。また、阿賀野川に鉱毒が流れ出て、魚類が大量死したと記録する資料も残っている。昭和の高度成長期に遠足で訪れた人に話を聞くと、本山には草木がほとんど生えていなかったと記憶していた。

草倉銅山本山にあった建造物の礎石

建造物の礎石(撮影:山口冬人氏)

坑夫たちの多くは「珪(けい)肺」にかかり、30~40代で亡くなるなど寿命が短かった。 珪肺とは、坑道内などに漂う珪酸の粉じんを吸入し、それが肺に沈着するため呼吸機能が衰えてくる塵(じん)肺の一種だ。こうした劣悪な環境のもと、坑夫たちは「友子同盟」という相互扶助制度を発達させていた。これは親分・子分の契りを交わす一種の徒弟制度でもあり、全国的な規模を誇っていた。向鹿瀬の龍蔵寺には友子同盟の坑夫たちの墓が祀られ、今でも7月15日の旧盆には無縁仏供養が営まれている。

坑道(への側道)跡(撮影:山口冬人氏)

坑道(への側道)跡(撮影:山口冬人氏)

草倉銅山は意外にも日本の近代化の光と影に多くの影響を与えている。というのも、 古河市兵衛が明治10年に購入した有名な足尾銅山は最初の数年は操業がふるわず、当初は草倉の稼ぎを足尾につぎ込み何とか経営を支えていた。やがて、足尾銅山は広大な鉱脈を掘り当て、草倉銅山の産出量の実に10倍以上、東洋一の産出量を誇るお化け鉱山に変身した。そのため、草倉で見せた鉱害の兆しは足尾では何倍もの規模の被害へと拡大し、ご存知の方も多い有名な足尾鉱毒事件を引き起こしてしまった。

こうした顛末をよく知る人の中には、草倉銅山の麓のすぐ近くで昭和電工㈱が鹿瀬工場の経営に着手し、やがて高度経済成長期に四大公害の一つである新潟水俣病を引き起こした顛末と重ね合わる人も少なくない。例えば、阿賀野市で被害者に寄り添う支援活動を続け、映画「阿賀に生きる」の仕掛け人でもある旗野秀人氏は、こうした奇妙な地理的符号を「赤い糸」という言葉で表現し、阿賀町津川の有名な郷土史家・赤城源三郎氏は足尾でも水俣でもなく「草倉こそ公害の原点」と記している。

草倉銅山が持つ独特の光と影の歴史は、現代の我々に何を語りかけてくるだろう。草倉銅山は明治期の日本の近代化に貢献しつつも、煙害や水質汚染などの公害の予兆を見せたが、これは「経済発展や生活の豊かさも大切であるが、人々の健康や自然環境をそれ以上に尊重しないと社会が続かなくなる」ことの教訓になるとも言える。さらには、あれほど栄華を極めた草倉銅山も、地下資源を堀り尽くしたため、操業開始からわずか数十年後には閉山に至りほぼ跡形もなくなったが、これは「持続可能な生活や真の地域づくりとは何か?」を私たちに考えさせてくれるだろう。

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