特集!阿賀野川ものがたり第1弾 ~ イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る
イザベラ・バードが辿った、ライン川より美しい阿賀流域行路へようこそ!
明治初期の東日本を旅したイギリスの女性旅行家・イザベラ・バードは、わざわざ遠回りして福島側から新潟入りし、阿賀野川流域を経由して新潟市に滞在した後、東北の地へ踏み行っていきました。あえて踏査が困難なルートを辿る中、思いもかけずバードが遭遇した“ライン川より美しい”光景が広がる阿賀流域の行路を、今昔の写真を織り交ぜつつ特集しました。
写真左「北越名勝・小花地の帰帆」(明治後期~大正期の絵葉書/柏崎市立図書館所蔵「小竹コレクション」)/写真右 :明治期の新河戸とおぼしき場所(明治期~大正期の絵葉書/田辺修一郎氏所蔵)
写真上「完訳・日本奥地紀行1~4」(金坂清則訳注・平凡社)
イザベラ・バードの阿賀流域行路を辿る 連載記事一覧
阿賀流域行路の全体を構成する4つのパート(+1パート)
バードが辿った阿賀流域行路は、大きく4パートに分かれます。
◆第1パート 津川に至る会津街道の道程にて
福島側から会津街道を通じて新潟入りし、津川に至るまでの陸路です。
◆第2パート 明治初期の川港・津川の様子
津川船道の隆盛で栄えた川港町の当時の様子が把握できます。
◆第3パート ライン川より美しい津川船道
津川の川港を出航して、阿賀野川の急流下りを含む津川船道の光景を今昔の写真を交えつつ紹介しました。
◆第4パート 新潟から木崎を抜けて阿賀野川流域外へ
新潟での滞在後、旧豊栄の木崎に至るまでを紹介して、特集は終了します。
これら第1~4パートに、バードの略歴や「日本奥地紀行」の内容を簡単に紹介した第0パートを加えたものが、今回の特集全体の流れとなります。
◆第0パート イザベラ・バートの略歴、「日本奥地紀行」の内容を紹介
阿賀流域行路に入る前に、イザベラ・バードの略歴を紹介し、旅行記「日本奥地紀行」を簡単に解説しています。
イザベラバードの生涯を簡単な略歴にて紹介
【記事の概要】イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)は1831(天保2)年10月15日に、イギリスのヨークシャーで牧師の長女として生まれ、1904(明治37)年に72歳で死去しました。20歳半ばで旅行作家としてデビューし、47歳の時に日本への旅行を決行して、2年後に旅行記「Unbeaten Tracks in Japan」(日本奥地紀行)を出版し絶賛を博します。
旅行記「日本奥地紀行」の紹介とバードが新潟に立ち寄った理由について
【記事の概要】「日本奥地紀行」は東京から出発し、新潟や東北地方を経由して、北海道まで踏査した旅行記として、日本では親しまれてきました。東京での旅行準備中に、キリスト教の伝道活動に新潟で従事するファイソン夫妻に出会ったことから、バードは旅で立ち寄る予定地の一つに新潟を加えたものと思われます。また、旅の通訳兼従者として活躍した伊藤鶴吉氏も紹介しています。
◆第1パート 津川に至る会津街道の道程にて
バード一行は福島側から会津街道を通って新潟入りします。そのまま会津街道の峠や宿場を経由して水陸の要衝・津川に至りますが、道中の悪路や山村の劣悪な生活環境について、バードが辛辣に苦言を呈しているのが印象的です。
バードにとって「悪名高き道」だった会津街道
【記事の概要】バードが福島から新潟入りしたコースは、江戸期の重要な交易路であり、新発田藩や村上藩が参勤交代の際に利用した会津街道に当たります。この街道は新発田から赤谷を抜け、阿賀町の津川を経由して福島の会津若松へと抜けていました。本記事では、宿場町として有名だった八木山集落までの行程を辿りますが、バードは道中の悪路にしばしば苦言を呈します。
当時の日本の山間部集落の劣悪な生活環境について
【記事の概要】前半に引き続き後半は八木山集落から始まり、津川の旅館に宿泊するまでの道程が紹介されています。新潟に入って以降の会津街道沿いで特に目にする、当時の日本の山間部集落の劣悪な生活環境について、バードは旅行記の中で辛辣に指摘しました。それとは対照的に、当時の津川町で宿泊した宿屋については、旅先で最も快適だった宿の一つとして高く評価しています。
◆第2パート 明治初期の「川港・津川」の様子
それまでの悪路で溜まった疲れを癒すように、バードは阿賀野川の交通の要衝・津川町に2泊して滞在しました。特徴ある町中を散策したりサクラマス料理を堪能した後、早朝の川港から帆掛け舟に乗り込んで阿賀野川へ出航します。
阿賀野川交易の要衝・津川町に滞在して
【記事の概要】バードが滞在した津川は現在の阿賀町に所在し、阿賀野川と常浪川が麒麟山を挟むように合流する地点にあります。明治中頃までは大河・阿賀野川の交易の要衝として、船や馬、人や物資が行き交う大変賑わった河の港町でした。バードは現在も残る津川の町中の特徴を注意深く観察して記録に残し、宿屋で出された夕食のサクラマス料理に舌鼓を打ちます。
津川の河港から阿賀野川へ早朝の出航!
【記事の概要】かつて津川の船着き場は150隻もの船が発着し、船荷を積み下ろす労働者が100人も働くなど隆盛を誇っていました。会津から新潟への商品輸送には薪炭・木材などや会津の年貢米が輸送される一方、新潟から会津へは塩や海産物、綿布などが多く輸送されていたそうです。バード一行は早朝に帆掛け舟に乗り込んで、津川の河港から出航します。
◆第3パート ライン川より美しい津川船道
阿賀野川へと出航したバードを乗せた貨客船は、バードが「ライン川より美しい」と賛辞を送った「津川急流下り」を通過した後、阿賀野川から小阿賀野川へと進入し、信濃川へと抜け出て終着地点である新潟へと至ります。
舟は“廃墟なきライン川”を通過して
【記事の概要】津川から出航した川舟が新潟へと到着するまでのルートのうち、まずは阿賀野川上流域の「津川急流下り」を通過します。特に名勝「本尊岩」のあたりの両岸に岩山が迫る景観を目の当たりにして、バードは阿賀野川を「まるで廃墟なきライン川のようだ」と形容し、「それよりも美しい光景だ」と最大級の賛辞まで送っています。
津川急流下りから流れが穏やかな阿賀野川の中流へ
【記事の概要】津川急流下りの後半は五十島附近からスタートし、現・五泉市の佐取(※現在の咲花温泉)や現・阿賀野市の小松・赤坂を通過して、初代・安田橋があった渡場-笹堀附近までバードを乗せた貨客船は辿り着きます。このあたりまで来るとすでに津川急流下りは終了し、阿賀野川の流れも大変穏やかになっています。
阿賀野川から小阿賀野川を抜け出て信濃川へ
【記事の概要】阿賀野川の中流附近を進むと、バードが気づかないうちに舟は小阿賀野川へと進んでいます。当時は分岐地点に現在のような閘門や水門がまだなく、しかも川筋が曲がりくねっていたため、舟が自然と小阿賀野川に入り込んだ印象をもってしまったのでしょう。小阿賀野川を通過した舟は信濃川へと抜け出て、やがて舟の終着地点である新潟が見えてきます。
◆第4パート 新潟から木崎を抜けて阿賀野川流域外へ
水路が縦横に走る当時の新潟に到着後、バードはファイソン夫妻宅に寄せてもらい1週間滞在します。その後、新潟からアンコ船に乗り込んだバードは、通船川を通過して阿賀野川を横断後、新発田川をさかのぼって当時の宿場町・木崎へ至ります。
水路が縦横に走り、街中は清潔だった当時の新潟
【記事の概要】新潟に到着した舟は当時の新潟市内を縦横に走っていた水路を進み、バードは街の真ん中で下船します。その後、ファイソン夫妻と再会して彼らが住む牧師館の一室を間借りし、1週間の滞在中に様々な場所を視察・散策しました。特に、美しい水路と柳が象徴的な新潟の街の美観には感心を示して、直筆のスケッチ画まで残しています。
新潟を出発した後、アンコ舟で宿場町・木崎へ
【記事の概要】新潟に滞在して1週間後の朝、バードは街中からアンコ船に乗り込んで新潟を出発します。アンコ船は通船川に入り込んだ後、阿賀野川を横断して、新発田川を進んで当時の宿場町・木崎へと至ります。バードはここで下船すると、今度は人力車に乗り換えて、新発田街道を北上していよいよ阿賀野川流域を後にします。
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