2025年09月02日
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第26回新潟水俣環境賞作文コンクール優秀賞受賞作品の全文を掲載します!

(写真提供:新潟水俣病被害者の会)
新潟水俣病被害者の会と新潟水俣病阿賀野患者会は6月、「第26回新潟水俣環境賞作文コンクール」の受賞作品を発表し、4名の方々が優秀賞を受賞されました。同コンクールは、新潟水俣病被害者の「こんな苦しみは自分たちだけでたくさんだ。子や孫に同じ苦しみを味わわせてはならない」という切なる思いから、次代を担う子どもたちに身の回りの環境に関心をもってもらおうと、県内小・中学生を対象に毎年開催されています。作文テーマは「新潟水俣病」や「身の回りの環境」などで、今回は267点(うち3点は県外から)の応募がありました。なお、今回の優秀賞は下記のとおりです。
◆優秀賞を受賞された皆さんと作品テーマ
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小学校3・4年生の部
- 「心」と「体」の苦しみ
山口真歩さん(五泉市立川東小学校4年)
- 「心」と「体」の苦しみ
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小学校5・6年生の部
- 大好きな新潟のために私ができること
阿部朝香さん(新潟市立木崎小学校5年) - 今の私にできること
井上樹さん(新発田市立住吉小学校5年) - 症状と差別の苦しみ
土佐林笑鈴さん(新発田市立住吉小学校5年)
- 大好きな新潟のために私ができること
優秀賞4作文の全文は下記に掲載します!

(写真提供:新潟水俣病被害者の会)
小学校3・4年生の部
「心」と「体」の苦しみ
山口真歩さん(五泉市立川東小学校4年)
私が、水俣病を初めて知ったのは、学校で調べ学習をしたときでした。そこから水俣病などを初めて知り、しょうげきを受けました。私は、その後、環境と人間のふれあい館に行き、語り部の小町ゆみ子さんに話を聞きました。ゆみ子さんは、長い間認定きじゅんに当てはまらないということで認められませんでした。でも、小町さんは、めげずに勉強会を開いてもらったり、本人もさいばんに出たり、テレビや新聞にものって、ビラ配りまでしました。そして、平成二十三年に、やっと水俣病かん者としてみとめてもらえたんだそうです。それだけの苦しさがあったことに、私は、(あぁ、良かったな。)と心から思いました。それでも、水俣病の苦しさが治るわけでも、死者が、もどってくるわけではありません。その水俣病の方たちは、苦しさにたえていたので、すごいと思います。
水俣病の学習を通して、私は思ったことがあります。それは、病状(体)、差別(心)の二つのことをたえていたのが苦しかっただろうなということです。もし自分が、と考えたりもしました。仕事場でも差別をされ、そのままクビになってしまう水俣病患者さんもでてきてしまったり、家からも出られずにいたこともあったんだそうです。
そして、これからの私がしたいこともあります。まず、次の世代に受けつぎたいことです。それは、自分たちよりも下の世代になると、水俣病のことすら知らない子が現われると思います。その子たちにも水俣病を知ってもらい、また次の世代へとつないで、未来にこの「水俣病」という名が覚えてもらえるように、残したいれき史だと思っています。そして、これからは、水俣病の人、その他の病を持っている人たちに、もっとやさしく、明るく対応できるようにしていきたいなと思いました。
最後に、私は水俣病の人たちのように、どんなことにもめげずに、ゴールまでぜったいにがんばっていけるような大人になりたいなと思います。
小学校5・6年生の部
大好きな新潟のために私ができること
阿部朝香さん(新潟市立木崎小学校5年)
私の家の近くには、阿賀野川があります。身近な自然ですが、橋をわたるときは、阿賀野川の大きさに毎回おどろいています。そのいつも見ている阿賀野川がおそろしい病気の水俣病に関係していると知った時は、とてもおどろきました。そこから私は、環境について興味を持つようになりました。
新潟水俣病は、五十九年前に初めて新潟県で発見され、たくさんの人を苦しめた病気です。私は、社会の学習で新潟水俣病資料館に行きました。そこで、私が生まれ育った新潟でもひがいがあったこと、ひがいにあった人にしか分からないつらさがあることを知りました。水俣病は、体だけではなく心も傷つけた病気です。病気で心も傷つくことについて私は今まであまり考えたことはなく、すごく心に残りました。
水俣病のかん者は、たくさんの人から差別を受けました。手紙で言葉の暴力を受けたことも苦しかったと資料にのっていました。水俣病かん者が、差別をやめてほしいという切ない気持ちが資料から伝わりました。一方で、どういう病気なのか分からなくて、自分にも水俣病にかかるのではないかと不安になる周りの人の気持ちも分かりました。当時の人の気持ちで考えると、正しい答えを見つけられず、モヤモヤした気持ちになりました。
もう一つ心に残ったことがあります。それは、語り部さんという水俣病かん者本人の話を聞いたことです。語り部さんは、
「人間と環境は協力して暮らしていかないといけない」とおっしゃっていました。この言葉から私は、人は環境を巻き込んで自分勝手なことをしてきたのだな、と語り部さんの話を聞いて感じました。だから、語り部さんは、この先もずっと環境と人間が正しい関係で生活していけるように、この言葉をたくさんの人に伝えてほしいのではないかと思いました。語り部さんの話を聞いたことで環境について自分にできることはないのかと考えることが多くなり、SDGsについて興味をもちました。
私は、水俣病を知る経験を通して、環境を大切にすることは、人間が快適に過ごすために必要なことだと分かりました。自然の美しさがくずれてしまうと、人の生活も変わってしまい人間の健康にもひがいが出てしまいます。新潟水俣病資料館で学んだ悲しい思いをする人々が二度と出てはいけないと強く思います。今まで起きたことをふり返り自然について考え、これからも生活していきます。
私の夢は、学校の先生になることです。新潟が大好きな私は、大好きな新潟の人々が未来もずっと幸せに暮らしてほしいです。だから、先生になった時、人間と環境は大切だと次の子ども達に伝えていきたいです。
今の私にできること
井上樹さん(新発田市立住吉小学校5年)
「あいつは、仕事もしないで、なまけ者だ。」
「あんた、お金いくらもらってんだね。いいねぇ水俣病になって。」
これは、私が新潟水俣病の差別や偏見について「考えるきっかけ」になった言葉です。
私たちは今、川で遊んだり、魚を美味しくいただいたりできています。当時は、スーパーがなく魚は川で取ってきていました。住民たちの生活を支えていたのが阿賀野川です。一九五六年工場では、さくさんやさくさんビニルを生産していました。その時に使った水銀が、毒性の強いメチル水銀に変わり工場はい水にまじって阿賀野川に流され、それが食物連さを通じてプランクトン、水生昆虫、魚へと取り込まれ、その魚を食べた人が新潟水俣病になってしまったのです。メチル水銀のせいできれいだった阿賀野川はおせんされていき、新潟水俣病が発生し、地域や家庭の絆をさく差別や偏見が生まれてしまったのです。
魚を食べたことで体内に入ったメチル水銀は、やがて脳の中にも入ります。そして、脳の中の「ものを見る部分」「手足をコントロールする部分」「痛さや熱さを感じる部分」などの神経細ぼうを破かいします。そして嗅覚、味覚、触覚、聴覚などの機能が低下します。それらを治す薬はまだ見つかっていないのです。だから、新潟水俣病が発生してから六〇年経った今でも分かってもらえない体の苦しみでかん者さんはつらい思いをしています。
新潟水俣病になってつらい思いをするのは、体だけではありません。新潟水俣病は誰かにうつるものでも子供にい伝するものでもないのです。しかし、「新潟水俣病だから」という理由で「結婚させられない」「新潟水俣病のくせに」など差別を受けました。
私は「なんで?」「おかしい」と思いました。
自分が新潟水俣病で体もつらい思いをしているのに「あいつは、仕事もしないで、なまけ者だ。」「あんた、お金いくらもらってんだね。いいねぇ水俣病になって」などと言われ心もつらくなったと思います。「つらい」「苦しい」「いやだ」という気持ちになったのではないかと想像できます。自分がされていやだと思うことを人にするということが私は不思議に思います。家族や親戚に迷惑がかかると思いながらも、堂々と裁判でたたかっている人は「強い人」だと思います。その人たちに対して差別や偏見の目で見たりする人は「弱い人」だと思うのです。
和解できたとしても新潟水俣病は治すことができない病気なのです。だから、差別や偏見をなくし少しでもかん者さんのつらい思いを分かり新潟水俣病かん者の方の「心の支え」になることが今の私たちや社会にできることだと思うのです。私は、この先も新潟水俣病の勉強をしていき新潟水俣病かん者の方のことについて調べ、よく知り「差別や偏見は絶対にしてはいけない」ということを伝えていきたいと思いました。
症状と差別の苦しみ
土佐林笑鈴さん(新発田市立住吉小学校5年)
命の川、阿賀野川にメチル水銀が流れてしまい、たくさんの人たちが水俣病になってしまいました。そこで、私は、新潟水俣病が発生して何がどう変わったのか考えてみました。私は友達、家族、地域の人たちの仲が他人のように変わってしまったんだと考えました。水俣病になったことで、仲が良くても水俣病を嫌がってその人から離れてしまう人もいたそうです。でも、水俣病は移ったり遺伝したりする病気じゃありません。自分の勝手な偏見でとても苦しんでいる人たちがいるのに、なぜ差別をするのか考えさせられました。私は、水俣病は絆も裂いてしまう、とても怖くてひどい病気なんだなと思いました。
新潟水俣病になった人たちはひどい差別にあっていたそうです。私は「差別ってどんな感じなのかな」と思いました。そこで、水俣病になった人たちが実際にされた差別を勉強しました。すると、「おい、水俣病が来たぜ。ミナだ、ミナだ。」「あそこの家では病人を出して金儲けをしている。」それを知った瞬間、私は「なぜ苦しんでいる人たちに差別するのか。」「なぜ苦しんている人たちを助けてあげないのか。」と怒りと悲しみがありました。症状でさえ苦しんでいるのに、差別をされてとても苦しかったと思います。差別は他人だけではなく地域の人たち、親戚、友達、そして、家族まで差別をしていたことを知りました。でも、水俣病になった人たちは何も罪のない人たちなんです。
何の罪のない人たちを、差別する人たちは本当にひどい人たちなんだなと思いました。水俣病になっても差別をされるのが怖くて家族にも言えない人がいるのに。でも、私は差別なんてそこまで怖いことじゃないと思っていました。そして、水俣病の勉強をした後、その人たちがどんなに苦しかったのかを知りました。それはひどくて、特に驚いたのが、家族にまで差別や偏見をされたことです。家族にも言えないくらい差別がその人たちを苦しめていたんだと思いました。
差別をなくすために大切なことはたくさんありますが、私は、「間違った情報を流さない」「偏見をなくす」「人はみんな平等」と、大きく三つに絞ってみました。「間違った情報を流すこと」はとても怖いことです。人から人へ情報が流れ、話は大きく変わる場合があります。現在ではSNSであっという間に世界に広がるため、発信には気をつけなければいけないと思います。これは、社会問題にもなっています。二つ目の、「偏見をなくす」では、自分らしさを出すために、また、もっと自分らしく生活できるために、お互いの個性や多様性を尊重できたら、差別が減るのではないかと思いました。最後に、「人はみんな平等」これは絶対だと思います。平等でないと、不平や不満が生まれ、争いや憎しみにつながる事があるからです。差別が一人一人の意識でなくなることを願いたいです。
第26回新潟水俣環境賞作文コンクール
- 主催:新潟水俣病被害者の会、新潟水俣病阿賀野患者会
- 後援:新潟県・県教育委員会、新潟市・新潟市教育委員会、阿賀野市・阿賀野市教育委員会、五泉市・五泉市教育委員会、阿賀町・阿賀町教育委員会、長岡市・長岡市教育委員会、上越市・上越市教育委員会、三条市・三条市教育委員会、柏崎市・柏崎市教育委員会、新発田市・新発田市教育委員会、小千谷市・小千谷市教育委員会、加茂市・加茂市教育委員会、十日町市・十日町市教育委員会、見附市・見附市教育委員会、村上市・村上市教育委員会、燕市・燕市教育委員会、糸魚川市・糸魚川市教育委員会、妙高市・妙高市教育委員会、佐渡市・佐渡市教育委員会、魚沼市・魚沼市教育委員会、南魚沼市・南魚沼市教育委員会、胎内市・胎内市教育委員会、聖籠町・聖籠町教育委員会、弥彦村・弥彦村教育委員会、田上町・田上町教育委員会、出雲崎町・出雲崎町教育委員会、湯沢町・湯沢町教育委員会、津南町・津南町教育委員会、刈羽村・刈羽村教育委員会、関川村・関川村教育委員会、粟島浦村・粟島浦村教育委員会、新潟日報社、朝日新聞新潟総局、毎日新聞新潟支局、読売新聞新潟支局、産経新聞新潟支局、NHK新潟放送局、BSN新潟放送、N S T 新潟総合テレビ、TeNY テレビ新潟、UX新潟テレビ21、FM 新潟 77.5 、FM KENTO、ラジオチャット・エフエム新津、エフエムしばた、FMゆきぐに・雪国新聞、燕三条エフエム放送㈱、エフエム角田山ぽかぽかラジオ、FM とおかまち、JCV 上越ケーブルビジョン










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