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プロジェクト開始の背景

このページでは、新潟水俣病が表面化して以降の歴史に簡単に触れながら、「阿賀野川え~とこだプロジェクト」(=阿賀野川流域地域フィールドミュージアム事業〔FM事業〕)が開始に至った経緯やその背景などを説明しています。

新潟水俣病をめぐる動き

◆昭和40年代の裁判闘争 ~ 新潟水俣病・第1次訴訟

新潟水俣病は昭和40年5月31日に阿賀野川の下流域で患者の発生が公式に確認され、その約10日後の6月12日に新潟県などから公表されました。そして、公表から2年が経過した昭和42年6月12日に、被害者らが原因企業を相手取って、いわゆる「第1次訴訟」を提起します。この新潟水俣病・第1次訴訟を皮切りに、他の四大公害の訴訟が次々と提起されました。その後、第一次訴訟は昭和46年に地裁で勝訴(確定)し、昭和48年には原因企業の昭和電工㈱と原告の被害者との間で補償協定が締結されました。

昭和40年代の裁判闘争 ~ 新潟水俣病・第1次訴訟

◆昭和50年代から平成にかけての裁判闘争 ~ 新潟水俣病・第2次訴訟

第1次訴訟判決後、新潟水俣病の被害を訴える人々は増え続け、法律に基づく水俣病の認定申請の件数も増加しましたが、昭和50年代に入ると認定申請を棄却される人が多くなりました。こうした中、昭和57年6月21日に、認定申請を棄却された被害者らが国と原因企業を相手取って、いわゆる「第2次訴訟」を提起しました。しかし、裁判闘争は長引き原告の被害者が高齢化する中、早期解決を求める声が次第に広がり、当時の与党3党が主導して平成7年12月までに関係者間で最終解決に向けた合意が成立しました(※政治解決)。

昭和50年代から平成にかけての裁判闘争 ~ 新潟水俣病・第2次訴訟

◆水俣病をめぐる新たな動き ~ 「水俣病関西訴訟最高裁判決」以降(平成16年~)

水俣病をめぐる新たな動き ~ 「水俣病関西訴訟最高裁判決」以降(平成16年~)

平成7年の政治解決後、水俣病を巡る状況は、一見、沈静化しているように見えました。
ところが、水俣病の損害賠償請求訴訟として唯一継続していた水俣病関西訴訟において、平成16年10月に最高裁判所で国と熊本県の行政責任を認める判決がくだされたのを機に、熊本県などで法律に基づく水俣病の認定申請が急増し、損害賠償請求訴訟も起こされるなど、水俣病を巡る新たな動きが活発化し始め、新潟県でも同様の事態が続きました。
環境省も、同判決を受けて、平成17年4月に「今後の水俣病対策について」を発表し、その中で、関係自治体と協力して医療対策の一層の充実を図るほか、水俣病発生地域の再生融和の促進等を行うことが示されました。

知事の宣言から「新潟水俣病地域福祉推進条例」へ

◆ふるさとの環境づくり宣言(平成17年度)

新潟県では、新潟水俣病40周年を契機に、平成17年6月6日、泉田裕彦新潟県知事(右写真)が「ふるさとの環境づくり宣言」を公表しました。宣言では、「ふるさとの自然を二度と汚さない」ことを行政運営の基本指針とするとともに、①阿賀野川流域や社会全体で新潟水俣病に対する正しい理解が広まること②水俣病の教訓が生かされ被害者が安心して暮らしていけるようになることが、今後行政が果たしていく責任、つまり、行政が達成すべき目標として明示されています。通常、この2つの目標はまとめて「地域社会の再生融和を図る『もやい直し』の推進」として位置づけられています。

新潟県知事・泉田裕彦

◆ふるさとの環境づくり宣言推進事業(平成18年度~)

新潟県では、平成16年以降の水俣病をめぐる新たな動きを背景として、知事の宣言や国の発表などを基に、平成18年度から「ふるさとの環境づくり宣言推進事業」を開始しました。
この推進事業は、地域の再生融和や教育・啓発、被害者の福祉対策などを具体的に展開していくための各種事業から構成されており、その中でも、FM事業は「もやい直し」推進のための中核的な事業として位置づけられました。

FM事業の本格的な始動!(平成19年度~)

FM事業は、推進事業の発足に伴い、平成18年度に流域資源の事前調査等を行い、平成19年度から本格的に始動しました。最初は、事業を遂行する総合プロデューサーを擁立し、流域市町、民間の有識者、流域関係者、新潟水俣病被害者支援団体の関係者などが参画して、事業の理念や方向性を討議する実施検討会を11月から開催しました。

◆新潟水俣病地域福祉推進条例 (平成20年度)

条例リーフ

さらに、新潟県は、新潟水俣病に対する偏見や中傷を解消し地域の再生融和を図ることで、誰もが安心して暮らすことのできる地域社会の実現を目的として、平成20年10月に「新潟水俣病地域福祉推進条例」を制定しました(平成21年4月施行)。FM事業も、県の施策「地域の再生・融和を図るための、被害地域住民の交流の促進」として、同条例の中に位置付けられています。

◇新潟水俣病地域福祉推進条例 第5条(県の基本的施策)

2 県は、新潟水俣病によって人々の絆に深刻な影響を受けた地域社会の再生と融和が図られるよう、新潟水俣病の被害者と地域住民との交流の促進その他の必要な施策を講ずるものとする。

ちなみに、同条例では、新潟水俣病問題が抱える様々な課題を下図のとおり整理して、必要な施策を講じています。

課題の整理

新潟水俣病をめぐる近年の動きについて

◆近年の裁判闘争、救済の動き、和解の流れ(~平成22年度)

平成16年10月の「水俣病関西訴訟最高裁判決」以降、水俣病の認定申請が急増するなど、水俣病をめぐる新たな動きが活発化する事態が続いた結果、新潟県でも新たな裁判闘争が始まりました。まず、平成19年4月に初めて新潟県を被告に加えた「第3次訴訟」が提起され、その後、平成21年6月に「ノーモア・ミナマタ新潟訴訟」(※マスコミで報道される、いわゆる「第4次訴訟」)が提起されました。
こうした動きを背景の一部として、平成21年7月に「水俣病特別措置法」が国会で成立し、平成22年6月から同法に基づく「給付の申請」の受付が開始されます。また、これと並行して、国や原因企業、提訴した被害者団体などとの間で話し合いが進められ、新潟県では、平成23年3月に「ノモア・ミナマタ新潟訴訟」における和解が成立しました(※「第3次訴訟」は現在も継続中)。

現在の裁判闘争

【参考】水俣市の「もやい直し」について

FM事業は新潟版「もやい直し」とよく言われますが、ここでは本家・水俣市の取組を簡単にご紹介します。

★ 「もやい直し」 ~ もう一つの公害発生地・水俣市の取組 ~

  • 「もやい直し」は元々、熊本県水俣市が官民協働で始めた独自の取組みです。新潟県で始まった地域再生の試みも、この水俣市の取組みがモデルでした。ちなみに、「もやい」には「船をつなぐ」や「共同で事を行う」といった意味があり、いったん壊れた「人と人」や「人と自然」の関係を皆で再び回復する営みを「もやい直し」と名づけました。
  • 水俣病の発生が昭和30年に公式確認された水俣市では、地域社会の中で激烈な差別が起きて人々の絆が壊れると共に、市の名前が病名となったことから地域経済も疲弊しました。水俣市では、この状況を何とか変えるため、平成2年頃から地域社会を再生・融和する「もやい直し」の取組みを、市民や団体と協働して開始しました。
  • 具体的には、水俣市民が自らが住む地域の資源を掘り起こす「寄ろ会みなまた」、「環境モデル都市づくり」を目指したユニークな環境施策、地元学を活用した地域づくりなど、数多くの施策が実施されました。現在の水俣市は、市民の相互理解や地域再生が進展した結果、マイナスイメージを見事にプラスに転換した環境先進地として、全国的に知られています。

水俣市「もやい直し」の歴史を知る関連リンク


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