2013年12月16日
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【阿賀町鉱山特集・後編】「ナニコレ珍百景」で放映された阿賀町・持倉銅山だけじゃない!~紙芝居「草倉銅山物語」の紹介♪
昨日の中編に引き続き、阿賀町鉱山特集・後編の草倉銅山特集をお送りします★
阿賀町では持倉銅山以上に人気が高く、壮大なバックグラウンドを持つ鉱山として、草倉銅山が知られています。産業遺構としては、持倉銅山や三川鉱山に及ばないものの、関連資料は多く残っており、そこに秘められたストーリーの数々が、現代に生きる私たちに様々なことを訴えかけてきます。
「阿賀野川え~とこだ!プロジェクト」では、草倉銅山の関連資料を膨大に収集して整備した後、それらをパネル作品や紙芝居として制作しました。本日は紙芝居の内容を少しだけピックアップしてご紹介いたします!パネル作品とはまた異なる雰囲気で面白いですよ!
物語は3人の男が江戸時代に草倉銅山を発見したシーンから始まります。明治期になって、経営権が津川の山林王・平田治八郎から古河市兵衛に渡り、草倉銅山は着実に収益を上げ始めます。古河財閥のロゴマーク「ヤマイチ印」が入った帆掛け舟が阿賀野川を何艘も往来する光景を、当時の人々は眺めていたのでしょう。
草倉銅山の最盛期には、本山と角神周辺を合わせて6,000人もの人々が暮らしていました。特に山奥にある本山の村には、小学校、病院、派出所、市場、神社などの施設が充実し、電話などの先進文化も入ってきていました。毎年、5月15日には山神様の祭りが開催され、近くの村の人々も集まって夜遅くまで鉱山踊りを楽しんだと言われています。
しかし、決して良いことばかりではなく、草倉銅山の精錬所から出る有毒な煙が、近くの集落の栗林を枯らす煙害事件が起きてしまい、阿賀野川に流れ出た鉱毒が魚を斃死させる事件も新聞に報道されました。また、坑夫たちの労働環境は苛酷で、落盤事故に遭ったり、坑道内の粉塵の影響で珪肺と呼ばれる病気にかかる者も多く、30~40代で命を落とす者が大半だったのです。
やがて大正期に入ると鉱脈が枯渇し、古河財閥は草倉銅山からの撤退を余儀なくされます。村全体が人々だけでなく建物も(!)全て含めて、その頃東洋一の生産量を誇っていた足尾銅山へと移住しました。その際に、子どもだけ鹿瀬に残し生き別れになった親子もあったと言います。その後、鹿瀬に残る坑夫の墓は荒れ果てていましたが、近年地域の人々の手で整備されました。
以上で、紙芝居の紹介は終了です。作品全体を通して見ると、草倉銅山が辿った光と影の軌跡は、昭和の高度経済成長期にも繰り返され、繁栄の中の環境汚染や健康被害、繁栄の後の衰退や過疎化など、多くのことを私たちに語りかけてきます。
紙芝居は随時、貸し出しておりますので、希望する方は「一般社団法人あがのがわ環境学舎」までお問い合わせ願います♪
◆一般社団法人あがのがわ環境学舎
住所:〒959-2221新潟県阿賀野市保田3866番地1
電話&FAX:0250-68-5424
E-mail:aganogawa@niigata.email.ne.jp
◆阿賀町鉱山特集
O阿賀町・持倉鉱山がテレビ「ナニコレ珍百景」で放映されます!
https://aganogawa.info/archives/12530
O【前編】「ナニコレ珍百景」で放映された阿賀町・持倉銅山こぼれ話~草倉銅山の事務員&五十島の蛍石
https://aganogawa.info/archives/12983
O【中編】「ナニコレ珍百景」で放映された阿賀町・持倉銅山だけじゃない!~草倉銅山パネル作品の紹介♪
https://aganogawa.info/archives/12996
O【後編】「ナニコレ珍百景」で放映された阿賀町・持倉銅山だけじゃない!~紙芝居「草倉銅山物語」の紹介♪
https://aganogawa.info/archives/13045
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